斎藤茂吉/のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり

斎藤茂吉『赤光』・大正2年(1913年)


 

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

 

前回、紹介したこの歌の「」の働きは、

 

はしきやし少女に似たるくれなゐの牡丹の陰にうつうつ眠る 正岡子規

 

たとえば、この歌の「くれなゐの牡丹の陰に」の「」とではだいぶ違うのだと思う。ここでの「」は叙述として客観的に開かれているのに対し、薔薇の芽の歌の「」は、歌の内部の韻律を形成していて、叙述的な修飾の繋がり以上に薔薇の芽の有機的な描写ともなっているのだ。助詞の「」が言語空間を内部化しているのである。

 

馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて思ひ見るべし 長塚節 日々のクオリア/9月11日

 

そのような助詞の置かれ方がこの歌ではさらに内在化されている。「馬追虫の髭のそよろに来る秋は」の繋がり方というのは、序詞的である。柿本人麿の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む」などを思い出してみるとわかりやすいと思う。「馬追虫の髭のそよろに来る」光景というものを節は見たことがあるに違いないが、ここではもう少し内的な映像としてのシュールなクローズアップのされかたがあって、それが節固有の「」の描写となっている。「馬追虫の」「髭の」と「」を重ねるときに視覚的にクローズアップさせてゆく過程が歌を内面化してゆくのである。そして、「来る秋は」の「」によって一旦おもてに開かれ「」というものを普遍化したあとで、「まなこを閉ぢて思ひみるべし」となるのである。

 

助詞が歌の言語空間を潜水させたり浮上させたりする。そういう有機性が作者の心動きと連動している。

 

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり

 

茂吉の歌では、さらに助詞の「」が主観と連動することで強調される。「足乳ねの母は」の「」はつまり詠嘆としての働きを持つ。もちろん節の「来る秋は」の「」も詠嘆であるのだが、ここでは普遍化されていたものが、茂吉の歌では絶対化される。

 

玄鳥がふたつ屋梁にいることと、母が今死にたまうこととは関連性がない。関連性がないだけでなく、「のど赤き玄鳥ふたつ梁にゐて」と「足乳ねの母は死にたまふなり」とは明らかに文体が違うのである。けれども、「梁にゐて」というふうに接続される。接続して「足乳ねの母は」と猛然と主観がクローズアップされる。節の歌に見られた映像的クローズアップがここでは主観のクローズアップとなっていて、それは段階を踏むのではなく「」という助詞一つによって一気に昇りつめることになる。

 

この「」の絶対性によって、歌は遡上し、関連性のない二つの事柄が強固に結び付けられることになる。つまり「のど赤き玄鳥ふたつ梁にゐて」までは実際に茂吉はそのように現場を眺め叙述している。そこからああ、今、母が死んでしまうのだという事実に行き当たる。この時、この場の全てのことが、同じ事実に行き当たる。行き当たると同時にまたこの場の全てのものはただそこにある。つまり「玄鳥」は「玄鳥」として絶対的にそこに居る。そのような激しい現場や事実や心の衝突が、文体と文体の衝突を生み、「足乳ねの母は」という絶対的な詠嘆にのぼりつめる。茂吉の歌では一語一語がその場の絶対性を持つことで、それが臨場感となり、そしてその場の一つ一つの絶対性が歌全体に及ぼされていく。ここでの「」はだから、「」のみを詠嘆すると同時に歌全体に及ばされる詠嘆となるのである。

 

毎回更新が遅くなっていて申し訳ありません。本日木曜日の生沼さんの回が先にアップされています。子供の頃、一度甲府に行ったことがあります。上野久雄さんは話し上手で、子供二人にいろんな話を聞かせてくれました。一回の競馬で何千万だか儲けて高級車を乗り回し、今度は競馬ですってその車を手放した話、戦後すぐの頃、結核でもう助からないという状態だったのを、上野さんのお母さんが、その頃まだ出回っていなかった薬の存在を知って探し回り米軍から入手して一命を取り留めたのだという話(これはかなり運命的な経緯があったはずだけど詳細は忘れてしまった)、だから僕は結核だったから癌にならないんだと言っていたこと(この説はあるときまで年配の方からよく耳にした)、癌にならないという話以外は全て、嘘のようなほんとの話で、けれどもダンディーな上野さんが話すとまるで全てが物語のようだった。斉藤真伸さんの挽歌を読むと上野さんという人物がいなくなってしまったことが、強烈に思われます。

 

ねむりゆく闇に思えば亡骸にまわりつづけていし扇風機 上野久雄/『冬の旅』

 

編集部より:今回のアップは19日(午後)でしたが、サイトへの掲載の都合上、18日に変更させていただきました。ご了承ください。