正岡子規/くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

正岡子規 明治33年作


 

美しい歌である。「くれなゐの」には単純に色が赤いという以上に、透けるような色彩が感じられ、春先の芽のあのほんの少し草色をさした点るような紅の色が自ずと目に浮かぶ。その色は春先の雨に滲んでいるのだ。

 

二尺というのは、一尺がだいたい30センチということだから1メートルほどになる。まだ硬い枝にならずにすうーっと伸びてきたものだろう。針もやわらかいのだ。

 

9月11日に「子規の歌は基本的に趣の発明と発信の精神によって成り立っている」と私は書いたけれど、この歌はそういう発信とは少し違った何か特別な感じがする。

 

はしきやし少女に似たるくれなゐの牡丹の陰にうつうつ眠る 

※うつうつは「うつ+踊り字」

 

子規にはこんな歌もあって、こういう「くれなゐの牡丹の陰」のような美的センスというのか、植物や風景の情緒をとても愛しているところがある。この歌ではそれがかなりシンプルに表出されている。

 

薔薇の芽の歌では何かが違うと感じさせるのは、たとえば、「くれなゐの」のかかりかたであろうか。おそらくこれは「」にかかるのだろうと思う。全集にはもとのかたちが「針くれなゐに」であったと註があるし、それだけではなくて、この歌は基本的に「」が詠われている。けれども間には「二尺のびたる薔薇の芽の」が入ることで、「くれなゐの」が歌全体に滲んでいくような、「二尺」という長さや「」で繋がれてゆく描写を通して視覚的に今まさに伸びてゆく芽が映し出されてゆく。それが絞り込むようにして「薔薇の芽の針」の尖端に雨が降るという先端と雨との微細な感触を生む。これが「春の雨ふる」だったらだめで「春雨のふる」によって、ここでの「ふる」に内在される「触れる」感触が鋭敏になる。

 

もう一つ注目されるのは「やはらかに」のかかりかたである。これは「」ののやはらかさとともに、「春雨」のやはらかさであり、その両者のやわらかさがここに滲むように触れ合う情景を生み出すのだ。

 

一つの雨の雫のたびに、薔薇の芽の針はその重さに少し耐えるだろう。雫はすぐに流れ落ちずに針の色を潤ませる。「くれなゐの」「薔薇の芽の」「春雨の」という一つ一つの「」はそのような雨と針との営為を感じさせるのだ。