斎藤茂吉/このこころ葬(はふ)らんとして来(きた)りぬれ畑(はた)には麦は赤らみにけり

斎藤茂吉『赤光』・大正2年(1913年)


 

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり

 

前回、この歌について、助詞の「」が絶対的な詠嘆となっていることを書いたけれど、それは母の死という特別な状況下だからだとも言えるはずで、けれども、茂吉のこのような助詞のあり方は何もこの歌に限ったことではないのだ。

 

このこころ葬(はふ)らんとして来(きた)りぬれ畑(はた)には麦は赤らみにけり

 

(からす)らは我(われ)はねむりて居たるらむ狂人(きやうじん)の自殺(じさつ)果てにけるはや

 

いずれの歌も、「畑には麦の(が)赤らみにけり」、「鴉らと(も)我の(も)ねむりて居たるらむ」とするのが自然であろう。けれども茂吉は「」を二度に亘って置くのである。一首目では、自分の何かしら苦しい心を葬ろうとやってきた畑には麦が赤くなっていたということを詠う。それは、自分の心持ちとは全く無関係にそこに存在している色彩であり、茂吉は改めてその色彩を書き起こそうとする。「畑には麦は」のそれぞれの「」にはそのような、ここにある麦の絶対性が茂吉の心に対する驚きとして屹立する詠嘆となっている。あるいは二首目では、狂人が自死したことを知って、その時間、鴉も自分もねむっていただろうと思う。そういう思考の流れが逆流して「鴉らは我は」から書き起こされる。ここで「鴉ら」が登場するのも思考回路として唐突であり、その唐突な「鴉ら」と「われ」はそれぞれ別個に「」によって詠嘆されるのだ。そのような「」が「狂人の自殺」という出来事に対峙する絶対性として置かれているのである。

 

鴉らも我も」であれば「果てにけるはや」の詠嘆に向かって歌は一直線となるけれど、茂吉はその場その場で詠嘆することで、心の強度を維持し続ける。そしてその場その場の心の強度が歌全体に反射するのである。