嵯峨直樹/さえずりをか細い茎にひびかせて黄の花すっくり花野に立てり

嵯峨直樹第三歌集『みずからの火』(2018年・角川書店)


 

前回、「光合成をするような歌の姿」というようなことを書いて、それから改めて光合成について調べていたんだけど、光合成は植物が吸い上げた水を光によって分解して酸素を発生し、二酸化炭素を有機物(つまりこの場合植物?)に固定するというのが私の知識の範囲内で、けれども、光合成は別に酸素を発生させることに限らず、

 

事実上、光合成生物の細胞の中のほとんどの反応は、窒素代謝であれ、硫黄代謝であれ、すべて光合成と考えるべきであるということになります。光合成というのは、光合成生物にとって、いわば「生き方」なのだと思います。光合成生物が「光のエネルギーを使って生きる」という選択をした時に、細胞内のほとんどの反応は、光合成として位置づけられることになったのでしょう。
光合成とは「植物の生き方」なのです。

「光合成とは」

 

ということで、このサイトの「光合成とは「植物の生き方」なのです」という見解をとても面白く思った。当たり前といえば当たり前なんだけれども、植物は人間のように物理的に食べ物を手でつかんで口に入れるようなことをしない。目や耳や鼻のような器官で外界を認識することもしない。そういう生におけるリアルとは一体どんなものなのだろう。そもそもそこにリアルなんてものはないのだろうけれども、人間の側がその生の在り様に詩によって近づくとしたら、どんな可能性があるのだろう。

 

さえずりをか細い茎にひびかせて黄の花すっくり花野に立てり

 

さえずりは木の梢のような上空のほうから聞こえてくる。その音を「ひびかせて」というところに植物の受動的な生の在り様が見つめられている。ひびいているのでもなくて、空間に散らばる目に見えないものをか細い茎のほうに「ひびかせ」ながらすっくりと立つという、まるでこの花は「鳥のさえずり」で光合成をしているようなのだ。

 

この一連は、「菜の花、桜、死」というタイトルで、〈菜の花に織られて金に匂いたつ暮れのなかぞら広々として〉(この歌についてもいろいろ書きたくなるんだけど)というふうに「黄の花」は「菜の花」のことで、でもそういうものを参照しなくても「菜の花」という感じがする。あのとりとめもなく黄色い花は、この歌によって空間にその色を散りばめるような気がする。鳥のさえずりを茎がひびかせることで、黄の色が空間に発生されているような、不思議な循環が見えて来て、それは歌の中に上空からか細い茎への、そして茎から黄の花への円錐形を生み出してもいる。本当に透明で現象的な循環がただここにある。

 

ひかる街のけしきに闇の総量が差し込んでいる 空に月球

 

こんな歌にも、やはり上からと下からの円錐形が見える気がする。