吉野昌夫/神宮競技場ここ聖域にして送らるる学徒幾万に雨ふり注ぐ

吉野昌夫『暦日』(短歌新聞社・1981年)


 

10月6日放送のNHK大河ドラマ「いだてん」第38話は、1938(昭和13)年から1943(昭和18)年までが描かれた回だった。具体的には、日中戦争長期化の影響で1940(昭和15)年の東京オリンピックは中止、第2次世界大戦および太平洋戦争が勃発し、1943(昭和18)年10月21日に学徒出陣壮行会が挙行されるまでである。一応記しておくと、もともと旧制の大学・高等学校・専門学校の学生は26歳まで徴兵免除だったが、兵力不足のため第2次世界大戦の終盤には在学中の主に文系学生を徴兵して出征させたことを学徒出陣という。ドラマでは主人公の田畑政治が、オリンピックを招致するためにメインスタジアムとして建設した明治神宮外苑競技場が若者を戦場に送りこむ場になってしまったことに心を痛めつつ万歳三唱をしていた。

 

史実としてはこのとき関東地方の計77校から推定約3万5千人(当時は人数非公表)の出陣兵が出席し、引き続き徴兵猶予された理系や教員養成系の大学生および旧制中等学校(現在の高等学校)や女学校の生徒ら計96校の約5万人がスタンドで見守った。壮行会はNHKラジオで2時間半にわたって実況中継された。またこのときの記録映像を基に映画「学徒出陣」も制作され、軍部のプロパガンダに使われた。学帽・学生服姿に小銃をかついだ学生たちが雨の降るなかを行進する映像を報道番組などで見た人も多いだろう。

 

このとき、出陣兵のなかに掲出歌の作者吉野昌夫もいた。吉野は1922(大正11)年東京都生まれ。旧制東京府立高等学校(現・首都大学東京)在学中の1942(昭和17)年に北原白秋の「多磨」に入会。翌1943(昭和18)年10月、東京帝国大学農学部農業経済学科に入学。同じ月に木俣修に出会い指導を受けるようになる。農学部は理系だが農業経済学科は徴兵猶予が解除されたため学徒出陣壮行会に参加。徴兵検査を受けたのち12月に横須賀の重砲兵聯隊に入隊している。

 

掲出歌は、もとは壮行会を踏まえて作った十数首の歌を個人的に木俣修に見てもらったものである。その後まもなく「短歌研究」で「学徒出陣の歌」を特集することになり、木俣にも対象者の推薦依頼が来た。このとき木俣が推薦したのが吉野だった。吉野は木俣の指示で5首を選んで「出陣」と題した一連が「短歌研究」1943(昭和18)年12月号に掲載された。掲出歌はその3首目だ。他の4首は

 

 

二十歳(はたとせ)のこれの一生(ひとよ)に悔なくてわれほこらかに召されゆくなり
しめりもつ石段(きだ)ひたひたと登りつつ戦ひ死なむ心きめたり
幼ならの勢ひ旗ふる道ゆけり面はゆくして送らるるわれや
いのちながらへて還るうつつは想はねど民法総則といふを求めぬ

 

 

である。後に吉野は壮行会の印象を「生きて葬式をやってもらっている」「訓示する東条英機のかん高い声だけが耳に残った」と、三枝昻之『昭和短歌の精神史』で語っている。掲出歌の「聖域」は現在の感覚に照らし合わせると皮肉っぽく映るかもしれないが、当時の空気を考えると出征に際して自身を鼓舞し士気を高めていると読む。「送らるる」には自身の意志ではない無念さが図らずも滲むし、「学徒幾万に雨ふり注ぐ」は実景をシンプルに描いているが、その後の自分たちの悲劇的な結末を予期している。

 

一連いずれの歌も意味内容は明快で、文体も平易である。これは20歳という年齢や歌をはじめて間もない歌歴もあろうが、「入営までに一首でも多く短歌を作っておこうと手帳から鉛筆を手放さない」という記述も三枝昻之『昭和短歌の精神史』にあるので、いつ死ぬかわからない自身の心情を記録する側面もあったのではないかと思う。ちなみに吉野はすべて内地に配属されたこともあって終戦後に無事復員し、大学に復学して卒業。農林省(現・農林水産省)を経て農林漁業金融公庫に定年まで勤めた。

 

歌人としては1953(昭和28)年に木俣修主宰の「形成」創刊に参加、1983(昭和58)年、木俣修の逝去に伴い「形成」の編集責任者兼発行所代表を1993(平成5)年の解散まで務めた。2013(平成25)年7月に90歳で亡くなっている。歌集は『遠き人近き人』など6冊あるが、「出陣」をはじめとする戦中戦前の歌は入っていない。掲出歌を含む初期の歌は選集である『暦日』(現代歌人叢書57)に23首収められており、今回の出典はそこからのものである。

 

「出陣」一連の他の歌の「ほこらかに召されゆくなり」「戦ひ死なむ心きめたり」「いのちながらへて還るうつつは想はねど」などの心情にも嘘や誇張はない。しかし時代の一種の強要はあったと思わざるを得ず、作者自身は無意識だろうが、若者にこんなことを言わせてしまう世相にした為政者の責任は大きい。そして、外地へ行って散った若い命と助かった命の差は紙一重でしかない。