嵯峨直樹/ベビーカー向こうの闇より現れて赤子の手足細かく揺れる

嵯峨直樹第二歌集『半地下』(2014年・角川学芸出版)


 

しらじらと無瑕疵の月は照りており関係の根は底へ伸びいて 

 /『半地下』

 

たとえば、こうした嵯峨直樹の歌が私には焦点が合わせづらかった。

関係の根は底へ伸びいて」というような観念性が描写によってもリアルに見えてくるような歌に私は見慣れてしまっている。けれども「関係の根は底へ伸びいて」はあまりにも無愛想に言葉の意味が置かれているように見えるのだ。

 

ベビーカー向こうの闇より現れて赤子の手足細かく揺れる 

 /『半地下』

 

こんな歌には惹かれながらもやはり「細かく揺れる」に焦点が合わなかったのである。写生的なものなのか、感覚なのか、詩的なものなのか、どういう方向のレトリックとしてここに置かれているのかよく見えなかった。「細かく揺れる」と言われると、なんだか風に揺れる枝や葉のようである。「赤子の手足」という生々しいものを出しながら、「細かく揺れる」はその存在に付属するものとしてあまりにもひ弱なのだった。

 

けれどもそのために、リアリズムが連れてくる重みとは違った魅力があるのも事実で、ここの「細かく揺れる」には何かこうとりとめのない奇妙な世界の感触があるのだった。

 

この歌での赤子の捉えられ方は、『みずからの火』の、

 

こまやかな体系をなすみどりごの眼は現し世の風にくるまれ

 

こうした「こまやかな体系をなす」という見方にも通ずるものだろう。とても硬質な物言いで、まるでシャーレの上に置かれたみどりごを顕微鏡でのぞいているような気さえしてくる。細胞が集まって手や足や眼が形成され、それらがみどりごの体系をなしている。そうして、そのみどりごを風がくるむのではなくて「」がくるまれているというのだ。みどりごの潤む眼が拡大されて風と眼だけがある。私は美しいなと思った。

 

そして嵯峨直樹の描写の在り方が少しわかったような気がしたのである。
嵯峨直樹の目は、一般的なモノの存在感、量感や物理性を見ているのではないのだ。たとえば、〈内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火〉というような影への目線であったり、色が形成する形であったり、とても現象的で点描的な集合性に目が向けられている。そのようにして見つめられるモノの世界には重みがない。嵯峨直樹の描写に重みがないのは実にこのためなのだ。

 

短歌という短い詩形は文体に重みを持たせることで一首のフォルムを獲得し屹立する。そのような意味で嵯峨直樹の歌は寧ろそのフォルムを霧散させるようなところがある。モノとモノとを、あるいは五句を連結するような歌の骨格とは違った、光合成をするような歌の姿があるのだということを次回書きます。