米川千嘉子/冬晴れに背の縮みたること著(しる)しわが母コウテイペンギンの背丈

米川千嘉子第九歌集『牡丹の伯母(ぼうたんのをば)』(2018年・砂子屋書房)


 

前回紹介した〈機械音痴人間苦手があつまつてマティスの「ダンス」のやうに相談〉というような色の反転をあぶりだす米川千嘉子の歌はときに奇想と呼びたくなるようなイメージの爆発力やメルヘンにも流れそうな発想を秘めながらしかも文体がしっかりとそれらイメージの手綱を引いて現実の地面に引きずり落とすような拮抗があり、それが歌をよりシュールにしている気がする。

 

中年のわれ目覚むれば二十代のわれのこびとはわつと駆け去る

 

こんなかわいい歌があって、米川さんのこのこびとはどんなだろうな、ってちょっとときめいたんだけれども、「中年」や「二十代」って言葉が「こびと」のメルヘンな世界観に対しすごくごつごつして見える。なにより、「こびと」と言われると、子供時代のような気がするのに、「二十代のわれのこびと」という。二十代という厳密には二十歳から二十九歳までの成人した自分が、「われのこびと」というくらいの距離を取るのはいつ頃からなのだろう。そんなふうにこの「二十代」はどこかすっと読ませない引っ掛かりになる。その引っ掛かりがリアルな二十代の頃の記憶や身体を思い起こさせてしまう。「二十代のわれのこびとはわつと駆け去る」にはだから、何か、現実的な濃い時間の経過が肉付けされたような気がするのだ。

 

汚染水漏れ、難民、地震、パナマ文書 奥へ奥へとしまひこむ抽斗

 

〈抽斗にしまう〉という比喩は決してめずらしいものではないし、上句の羅列は雑だとも言えるけれど、この歌では、「汚染水漏れ」「難民」「地震」「パナマ文書」っていう敢えてばかんばかんと置かれる言葉の強さが大事なのだと思う。そしてそれらが抽斗の一段一段に入っているような奥へ奥へとしまいこみながら、一方でその抽斗を引き出したときのイメージを想起させる。私が子供の頃に好きだった絵本に「うぐいす姫」という昔話があって、たんすの抽斗の一段目を開くと、稲刈りの光景が、二段目を開くと梅の咲く光景が入っている、というような場面があったんだけれども、ここでは世界的な重い問題が入っているのだ。しまいこむことを詠いながら、これら諸問題をまざまざと現出させているのである。

 

冬晴れに背の縮みたること著(しる)しわが母コウテイペンギンの背丈

 

コウテイペンギンの背丈」と言われると、なんだか絵本のようなかわいらしさがある。コウテイペンギンの背丈は110~130センチくらいらしく、ちょうどうちの娘と同じ背丈ということになる。皇帝ペンギンだけに、けっこうでかい…

 

それで、でも、この歌では絵本のようなかわいらしさは感じられない。「冬晴れに背の縮みたること著し」という上句によって、寧ろ現実的な重さが伴う。コウテイペンギンというペンギンのなかでも大きいその背丈は急に、冬晴れの広い空からぎゅううっと圧がかかるようにして縮んだものの姿を成すのだ。それは着ぶくれした母の姿なのである。そこに切実なかなしさがある。

 

コウテイペンギンといえば、塚本邦雄の〈日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも〉がすぐに思い出されるわけだけれどこの歌では〈コウテイペンギン〉とカタカナにすることで、塚本の歌との関連性を回避しつつ、けれどもどちらの歌でも「皇帝ペンギン/コウテイペンギン」という名称や姿の滑稽な哀れさが共通していると思う。それはいずれも現実という重みに対する比喩として置かれているのである。

 

あと一回、米川千嘉子の歌について書きます。