生沼 義朗


笹本碧/下り坂下から見れば上り坂インテグラルのかたちをえがく

笹本碧『ここはたしかに』(ながらみ書房・2019年)


 

笹本碧(ささもと・みどり)は1985(昭和60)年東京生まれ。2013(平成25)年より「心の花」に所属し、2018(平成30)年に第18回心の花賞を受賞している。

 

掲出歌は歌集冒頭の一連の2首目。「インテグラル」は積分記号で、Sを長くした記号(∫)が使われる。要は坂が∫のように見えたという歌意だが、眼の前の風景を詩に転化しようとする伸びやかな感性を受け止めることができる。上句の「下り坂下から見れば上り坂」は助詞がないためやや幼い口ぶりに思えるかもしれないが、ここは道具立てなどから考えて青春性の発露と捉えたい。下り坂も下側から見れば上り坂というのは一見当たり前に見えるが、単なる視点の転換にとどまらず、日常の視野や価値観をひっくり返したいという希求につながる。それが詩となって独自のきらきらしい歌世界を構築している。

 

 

薄明は空のぬくもり息をして細胞たちのドアノックする
空に風B3出口の階段に降る桜蕊生きてゆけそう
全身の道管ぎゅっと目覚めさす 離陸したての飛行機の下
台風が生まれたようだ南から僅かに伝わる気圧の震え

 

 

どの歌も、五感をフル活用して事象を感知し、まっすぐにかつ大きな見地から捉えようとしている。その奥には生命や自然の意味を問う意識と、今生きていることを素直に噛みしめる実感が漂う。読んでいて、自分は早川志織の初期作品も思い出した。

 

『ここはたしかに』は第1歌集で、巻末の「編集を終えて」に佐佐木頼綱が「期待の新人笹本より歌集制作の希望を預かった。(略)しかし途中笹本が体調を崩してしまい、彼女が参加していた勉強会の主催者である横山未来子、勉強会のメンバーである野原亜莉子と奥田亡羊に協力を依頼し歌集編集チームを立ち上げ原稿作成を引き継いだ。九百首以上あった笹本の歌を編集メンバーの五人で採点、取捨選択し、宇宙や存在をテーマとした歌を中心に本歌集原稿を作成した」と記しており、さらに「歌集タイトルは笹本が決めている。歌の並びは、笹本が制作した連作を軸に編集メンバーで構成した。小見出しの下に制作年が記された連作は編集チームが抄出し編年体で並べたものである。笹本自身が歌集原稿を最後まで作っていたらこの歌集とはまた違った形になったであろう」とある。

 

笹本は今年6月に34歳の若さで亡くなったという。今までにも何回か若い歌人の遺歌集を取り上げた。早逝は本当に残念だが、同じ結社の仲間などが編集作業を行って遺歌集の刊行にまで漕ぎつける。その熱意や行為は本当に尊いといつも思う。

 

今回は結社の夏の大会に間に合わせる目標があったため161首の暫定版として刊行したが、追って400首前後で構成した正式な第1歌集を刊行する予定という。その完成を心待ちにしているし、読むのが楽しみだ。