米川千嘉子/悪夢のごとくスーパーマリオが似合ふ首相リオにあらはれわれは萎えたり

米川千嘉子第九歌集『牡丹の伯母(ぼうたんのをば)』(2018年・砂子屋書房)


 

リオオリンピック閉会式で登場した安倍首相のスーパーマリオは確かにすごく似合っていて、その似合い方を「悪夢のごとく」と言っているところに思わず笑ってしまう。「悪夢のごとく」と言われただけで、この悪夢のいろんな要素がマリオというどこまでも影のないキャラクター&色彩のシュールさを際立たせるのだ。

 

マリオといえば平岡さんが以前、俵万智の〈「オレが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ〉(日々のクオリア:2018年1月22日)について、そのグロテスクさに言及していたのが印象的だったけれど、この米川千嘉子の歌でははっきりと「スーパーマリオ」っていうカタカナの明るさ、ゲームっていう仮想世界のキャラクターが不気味さに反転させられて、それはまた、オリンピックというお祭りの歓びや感動、リオの開放的なイメージ、仮装のびっくり箱的な驚きや可笑しさとも連動する。うちの首相おもしろいことやるじゃんか、と乗れる人、悪夢的な要素を嗅ぎ取ってしまう人。いろんな場面で人はこの双方に分かれるようにも思うし、どちらに行くかは時と気分と場合にもよるけれど、あのスーパーマリオはそういう意味で象徴的でさえある。悪夢的な要素を嗅ぎ取ってしまった彼女は「われは萎えたり」となるのである。

 

われは萎えたり」は言わずもがなというか、蛇足でもあるんだけども、この結句の蛇足によって生ずる歌の姿がある。世界の反転性を暴いて見せたり告発するだけではなくて、あるいは対峙するのでもなくて、そういう世界の反転性に対し「われは萎えたり」というすこぶる素直な個人に戻る。そういう「われは萎えたり」がこの歌を米川千嘉子の歌たらしめているとも言えて、萎えてはいるんだけども、その蛇足的文体が歌の手綱になって現実の地面に引きずり落とすような拮抗があるのであり、ここで生ずる悲哀まじりの可笑しさがなにより味わい深いのだ。