生沼 義朗


熊谷純/ほの香るアルコールにて手を浄めストアスタンプの日付を変へる

熊谷純『真夏のシアン』(短歌研究社・2018年)


 

熊谷純(くまがい・じゅん)は1974(昭和49)年広島市生まれ。2010(平成22)年より作歌を始め、第1歌集『真夏のシアン』には、2017(平成29)年までの作品が収められている。

 

 

市役所の掲示板なる公告のあせたる紙の朱印あざやか
劇的なことなど何もない夜に冷めたパスタを巻きつけてゐる
木の棚に三冊分の空洞を残して夏の図書館を出る
自販機がとりはらはれて自販機の下にたまつた光も消える
いくたびも再放送をくり返しみんなの記憶となるものがたり

 

 

作風は日常の何気ない景色を、口語で詩性高く詠う。他者があまり出てこないため、一見自分語りのようにも見えるかもしれないが、よく読むと眼の前の景色から不純物を取り除くように詩を抽出していることがわかる。その手法がきらきらしい作品世界を産んでいる。

 

詩性の高さやきらきらしい作品世界の点では前回取り上げた笹本碧にも共通するものがあるが、笹本は大きな見地からマクロに事象を捉えてゆくのに対し、熊谷はあくまでミクロな視点から入る。ゆえに一見些事を描いているように見えるかもしれないが、歌に描かれる事象はミクロにとどまらない。日常の出来事の意味を常に問うている。斉藤斎藤のような鋭い問いや中澤系のような哲学的な問いとはまた違う、日常のささやかさを再確認することで生の実感を噛みしめるような手応えがある。

 

 

春風に時をり抗はうとするむすび百円セールののぼり
人間の顔を見ないで人間の手ばかりを見てお釣りを渡す
潔く命の期限を前面に押し出して待つ棚の弁当
来る者は拒まず去る者は追はずひかりも透かす二枚の扉
コンビニのレジの横には箱のあり祈りを捧ぐる場所のごとくに
うつむきて雨に濡れつつ歩くのは制服を着たほやほやの自我
いつまでも売れぬおでんの大根を励ましながらひっくり返す

 

 

『真夏のシアン』で特徴的なのは、コンビニエンスストアを詠んだ歌が要所要所にあることだ。歌を読むとコンビニでアルバイトをしているようで、掲出歌もコンビニでの労働を題材にした歌のひとつである。歌意は明瞭で、アルコールスプレーで手を消毒してから、公共料金の領収書などに押す店の判子の日付を変えたのだ。消毒するのは、食品を扱った同じ手で多数の人の手を経た金銭にも触れるからであったり、感染症の予防などいくつかの理由があるだろう。いずれにせよ、勤務時間中はしばしばアルコールスプレーで手を消毒していると想像できる。また下句の表現から、深夜勤務の最中であることもわかる。

 

感情を示す言葉はまったく使われないが、みずみずしく少しかなしげな抒情が伝わる。それは初句の「ほの香る」や三句の「浄め」に作者の感情が滲んでいるからだ。「ほの香る」は厳密に言えば客観的な描写よりも、やや感覚に寄った措辞である。しかし感覚的ではあっても、感情を前面に出さずぎりぎりのところで止めているため、歌のデッサンの精度は揺るがない。自分や自分の言いたいことばかりに関心のある作者ではこうはいかない。熊谷の歌は紛れもなく作る際に読者や他者の存在が明確に意識されており、だからこそ感情が露出しないのである。

 

コンビニの仕事の歌は今までにありそうでない題材で、労働詠や職業詠の側面から見ても興味深いが、魅力はそれだけではない。コンビニは今や社会インフラの一端を担う機能が期待される一方、コンビニはブラック労働の典型例と見なされ、現在深刻な人手不足をかこっている。また最近ではドラッグストアもコンビニと似た業態にシフトしており、コンビニ市場自体が飽和状態に陥っている。コンビニは暮らしに密着した存在だから、コンビニ業界が抱える問題はそのまま社会問題になることも多い。そうした一種特殊な現場で疲弊しつつもさまざまな出来事に反応し、出来事の意味を問いながら生の実感を噛みしめる作者の姿に胸打たれた。

 

熊谷の仕事の歌は何かを告発したり糾弾したりするものではない。かといって安易なヒューマニズムとも違う。熊谷の歌の根底に流れているのは〈かなしみ〉である。もっといえば、さまざまな日常の事象のなかから感受した〈かなしみ〉を丹念に歌にしている。なぜ詩を作るのかと問われて「かなしいからに決まっているじゃないか」と答えたのは俳人の高柳重信だが、紛れもなく〈かなしみ〉を感受できる能力は詩歌に携わるものの生命線のひとつなのだ。