大松 達知


そしてまた歳月が過ぎここはもう廃墟ですらないかすかな起伏

小林幸子『場所の記憶』(2008)

 

 これは海外詠である。

 海外詠はうまくいかないことが多い。これだけ海外旅行が盛んになっても、まだまだ共通理解が可能な歌枕的な場所はないし、世界は多様すぎて読者個々の推測の域をこえるのかもしれない。

 観光短歌は価値がないし、かといって、独自の視点を示すには共通基盤がなさすぎる。

 

 しかし、詠むべき歌はある。

 これは、アウシュビッツ第二収容所ビルケナウのあたりのことだと推測される。

 だが、そういう知識は横に置いても、どこかかつては廃墟と呼ばれた場所がさらに時間を経て「廃墟ですらない」状態になるまでの長い長い時間を感じられればいい。

 旅行詠は具体をとことんつきつめたカメラアイと、そこから抽出されて純化された景色と時間の両方のバランスが必要なのだろう。

 

 順番からすると、

・クラクフはなつかしき街 クラコウと呼べばおほきな鳥ゐるごとし

・しろじろと地下房の壁に十字架の懸かりてゐたり 爪で彫られき

・ガス室の天井に穴 チクロンBの缶をはめたる穴あいてをり

・ひつつだに眼(まなこ)はここに残されず眼鏡とめがねにぶく照り合ふ

という、オシエンチム(アウシュビッツ)収容所を詠んだものや、

・ビルケナウはもつとかなしい 夏草に線路と廃墟のこるばかりの

という歌を先に読んで欲しい。そういう具体の積み重ねのあとに置かれた標題歌だからこそ、場所と時間の広がりに茫然とすることができるのだ。