小島なお/ジーンズがほそく象る妹の脚の間を日々が行き来す

小島なお「公孫樹とペリカン」/(「COCOON」10号・2018年)


 

今日の一首は、ずっと取り上げようと思いながら、こんな年末になるまで書けなかったのは、一つには寒い季節に紹介したいというのもあったのだけど、実は未だにこの歌の魅力をどう書いていいかがよくわからないからである。

 

同じ一連の、

 

硝子器に透けている茎 人体に髪あるように草に花あり

アコーディオンちぢむ空気の力もて金銭うごく年末年始

 

こうした歌にも私は魅力を感じているし、その魅力は今日の一首とも重なってくるのだけど、これらの歌であれば、いくつかのアプローチの方法が私の手には与えられているように思う。たとえば、二首目であれば、「アコーディオンちぢむ空気の力もて」という比喩の秀逸さや、それが「金銭うごく年末年始」の話であることのユーモア。歌の文体にはアコーディオンの生み出すリズムまでもが感じられ、つまり、内容や文体、レトリックなどいくつものアプローチの道筋を見出すことができる。

 

けれども、今日の一首というのはそのようなアプローチの手段が削ぎ落されてしまっている気がする。削ぎ落されているからこそ、ここには小島なおという歌人の世界に対する感度みたいなものが骨格として取り出されているように思うわけだけど、だからこそどうやって書いたらいいのかわからない。

 

春の夜の音楽室に昆虫のような無数の譜面台あり

細長い地下道ゆけば思い出す苦くて飲めぬ粉薬のこと

昼過ぎの日差しこもれる春のバス窓から見える桜十二本

 

乱反射』の前半の歌から引いてきた。小島なおの歌集を読んでいておそらく誰もが感じることは、歌がとてもさっぱりとしていることである。それはまずは文体によって感じられる。動詞が少なく、さらに動詞の活用も少ない、ほぼシンプルな終止形によって構成されている。そしてそのようなシンプルな文体が生かすのが名詞が喚起する画像的な鮮明さである。一首目であれば「昆虫のような無数の譜面台」という奇妙な画像がクリアに取り出されるのであるし、二首目では、「細長い地下道」を通るときに思い出すものとして「苦くて飲めぬ粉薬」と、思考がとても鮮明に取り出される。三首目では、バスの窓から眺める桜はその過ぎゆく速度を感じさせない「桜十二本」という精確な数詞で提示される。正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」にあった雑駁な把握に息づく主観がここにはなくて、とても生真面目に桜の本数が写し取られているのだ。こうしたクリア感については、山田航も『桜前線開架宣言』の中で「世界像が靄がかかっておらず妙にクリアで、異様に洗練された映画の中の空間のように思える」と鮮やかに指摘している。そして、私はこうしたクリアな歌の構造によって、一つの世界の見え方が一つの感度を伴って定着されているところに小島なおの歌の特長があるように思うのである。

 

プールサイドの腕をじりじり蟻のぼるその秒刻に夏が濃くなる

 

この歌について、歌集刊行当時、時評か書評で確か黒瀬珂瀾さんがその官能性のようなものを指摘していた文章があって(※誰かすぐ見つけられる人がいたら写メでいいから送って欲しい)、そこで黒瀬さんが指摘していた「官能性」って、すごく新しいものだと感じたのだった。基本的に短歌の官能性は、暗喩と動詞の抑揚といういわばレトリックを駆使することでその怪しさを醸し出すような、言葉の粘着質な質感によって渾然一体とした官能性を生み出すものが多いと思う。でも、この歌にあるのは「腕をじりじりと蟻のぼる」という一点に見つめられるクリアな時間なのだ。「プールサイド」という場所、乾いてゆく皮膚の感触、そこをのぼる黒い蟻。その蟻を払ったりつぶしたりできずに見つめてしまう時間。それはある意味で、とてもハードボイルドな世界なのである。そして、このようなクリアな描写によって、一点の感触なりを白日のもとに明らかにしてしまうところに、一種無防備な官能性が生じて見えるのがこの歌なのではないか。

 

一見、さっぱりして見える小島なおの歌には、ある一点がクリアに取り出されることで生ずる痛いような触覚が働いているのだ。そして大事なことは、ここにあるクリアさは、モノそれ自体というよりも、周辺の空気の透明度の高さにあるのではないかということである。空気中の細かな塵や埃を取り除いた鮮明さこそが、シンプルな文体によって作り出されているのであり、そのようないわば不純物を全て取り除き他のモノの気配の消失した真空管に「感度」が保存されている。

 

ジーンズがほそく象る妹の脚の間を日々が行き来す

 

というところで、ようやく今日の一首。
この歌では、「日々」というものが視覚化されてしまっている。「日々」というものに付随するはずの様々な要素が取り除かれて「行き来す」というまるでベルトコンベヤーに載せられた荷のようなモノとして視覚化されている。さらに注目するのは「」である。この「」もやはり、そこに付随しそうな作者との関係性や感情、性格などがすべて削ぎ落されているように見える。だから、「」ではなくて「人間」とすればもっと哲学的な歌になってわかりやすいかもしれない。けれども、この歌は「」だからいいのだ。「」であることのモチーフとしての必然性が歌の画像に落とし込まれたことでただのシルエットになる。そのように還元されてしまった「妹」がとても新鮮なのだ。

 

それで、私がこの歌からどんなイメージを描いたかと言うと、それは、脚を肩幅に開いた妹が、公園の土のような硬く均された地面の上に立っているシルエットであり、その脚の間を、「日々」がたくさんの蟻の行列のように忙しく行き来している光景である。

 

だけど、一般的な「日々」という時間軸を考えれば、上記のイメージは、私が間違って導き出してしまったものではないか。そう思って幾度も、この「」はふつうにいろんな態勢で日々動いていて、その脚の間を…と、イメージを修正しようとするのだが、どうしても、じっと脚を肩幅に開いて立っている「」のシルエット、そこを「日々」だけが動いている映像に行き着いてしまう。人間も他の全てのモノも静止して「日々」だけが忙しなく行き来している世界。そういう奇妙な世界の骨格がここには出現していて、そしてそれは、世界をクリアにしていった先で、何かが組み替えられてしまったような、とても面白い詩の在り様であると思うのだ。

 

なお、今日書いたことは、平岡直子さんがこちらで書いていたこととも何かしら関連するように思います→「日々のクオリア」2018/4/6