野べに来て萩の古枝を折ることはいま来む秋の花のためこそ

良寛

 

この日曜日に萩を見たくて、唐招提寺を訪ねた。残念ながらまだ花の盛りには遠かったが、壮大な伽藍を埋め尽くす萩のゆたかなしげりに目を洗われる思いだった。萩の歌は古来数あるけれど、良寛のこの歌は歌いぶりが優しくてずっと心に残っていた。仮名書の展覧会などでうつくしく書かれているのを見かけることがあってほっとする。

ところで良寛らしい平易な歌いぶりなのに、解釈しようとするとふと迷ってしまう。

 

初秋の野辺にやってきて萩の古枝を手折っている。それは、まさに来ようとしている今年の秋の花のためなんだよ。

 

萩の枝に申し訳なく思いながらも、新しい秋の花のために場所をあけてやっている良寛の自然へのやさしい思いやりの歌。そのように単純に解釈していたのだけど、どうも落ち着かない。

それで、「校註 良寛歌集」を参照してみると、この歌のまえに、「おくつきに行き萩の古枝を折りてよめる」とある。おくつきは、墓のこと。墓に萩の枝を手向けての歌だった。この墓の主は良寛が一時、歌の師として学んだ江戸の歌人「大村三枝」のことらしい。三枝は国学者、村田春海の門人である。

ということは、ここでいう「いま来む秋の花」とは、あたらしく黄泉の国に旅立つ人ということかもしれない。ひとり秋に旅立つ死者のために、せめて手土産として萩の古枝を持たせたいという手向けの歌か。

それにしても、この歌には死者をこころから悼むと言った悲痛な趣きはほとんどない。どちらかというと、去ってゆくものを、心しずかに見送るような安らぎが流露している。それはこのとき、良寛はすでに60歳を過ぎた老境にあったせいかもしれないし、三枝とのちょっとした距離のある関係のせいかもしれない。

 

何度か読んでも歌の独特な柔らかな韻律は、良寛という人のあたたかな人柄から生まれている気もする。良寛は万葉集を書き写して歌を学んだと言うから、次に引く歌が頭の片隅にあったと思うと、それもまた楽しい。

 

をみなへし 秋萩手折れ 玉桙の 道行きづとと 乞はむ児がため

(万葉集・巻8 1534)