糸田ともよ『しろいゆりいす』コールサック社,2018
先日、大森静佳さんのすべてがひらがなにひらかれた歌を鑑賞しましたが、そののちにふと思い出したことを。
この『しろいゆりいす』という歌集は、一冊を通して、一首をすべてひらがなでひらいたもののあとに、同じ歌が漢字で表記される、というつくりをしています。
したがって、本来は
ふうようのささめきもたえ こんじょうのはてなきなぎになみだつなみだ
風葉の私語も絶え 紺青の涯なき凪に波立つ泪
というふうに掲載されています。
驚いたのは、ひらがなのあとに漢字へ目を通すと、何故かその印象を変えてしまう作品もあること。
今回取り上げた歌もその一例で、例えば「ささめき」が「私語」と読まれている点や、「こんじょう」がおそらくは「今生」の意味をとりながら、「紺青」と表記されている点。(この「紺青」の使い方は塚本邦雄もよく用いるものですね)
風に吹き散らされる木の葉のささめき。それが絶える、ということは、その世界にふっと音が途絶える。けれど「なみだつ(波立つ)」とあるので、おそらく、風は依然と吹いている。
上の句で提示された自然のイメージに寄り添うように、下の句の「なみだ(泪)」もにんげんのそれというよりも、どこか海や湖や、「なみだつ(波立つ)」ことのできる「こんじょう(紺青)」のみなもを想像します。
これらの読みもひらがなだけで表されたもの、まずは「はてなきなぎになみだつなみだ」の音韻を楽しんだのち。
ひと文字一文字をゆっくりと目で追うことで、言葉の意味よりも前に、自然とまずは音韻を意識させられる。
ひらがな表記ならではのやさしさとあやうさが、テキストと読み手とを緊張関係で結んでいるのです。
これは大森さんのときに挙げた「おさないひとをさとすようなくちぶり」とはまた別の効能であることに、ふと気づいたのでした。