石川恭子『Forever』砂子屋書房,2018
不思議な構成の歌です。まず、その目がどこを見ているのかがわからない。
「光」から「春」を見出している語り手は、同じまなざしで明るんでゆく「空」を眺めている。あるいは、作中の主体は「空」を見上げていて、語り手が「春となる光」をそこに見出している。
いざなわれるように、わたしたちの心の目は明るむ「空」にスポットライトが当たります。
けれど、そのつぎに来るのは「いづこより来るこのかなしみは」。
「いづこ」に関しては以前、川野里子さんの歌を鑑賞した際、[「いづこから」は、謎めきや神出鬼没の様子をとらえたというよりも、むかしむかしあるところに…というニュアンスで読みました。]と書きましたが、
ここでは歌の腰である三句目に「いづこより」が置かれていて、空を見上げたままのわたしたちは困ってしまう。いったいどこから、そのフレーズがやってきたんだ。
だからこそ、この歌でなによりも輝いているのは、まさにこの「いづこより来る…」なんだと気づきます。
ひたすらに、作中の主体は「かなしみ」の中にいる。その様子は漠然としていて、状況はうまくつかめない。
「かなしみ」は「愛おしい」と「悲哀」の両方の意味合いを持ちますが、ひらがなで開かれているということは、どちらも読みの可能性を包摂しているのでしょう。
実景+倒置法を用いたつぶやき、の形をもつ名歌は、例えば
秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
(堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』港の人,2013)
が真っ先に思い浮かびます。「は」で終わる歌の形は、くちのぽっかり開いた発音の余韻をともなって、どこか天を仰ぐような様子を彷彿とさせられます。
この歌たちを読んで、下を向いてくちをぽっかり開けるのは、じつはとってもむずかしいのだということに初めて気がつきました。