かなしみを晒すごとくに灯のしたの林檎の皮に刃をくぐらせつ

横山未来子『とく来りませ』砂子屋書房,2021年

あかりの下でリンゴの皮を剥いている。提示される景はわかりやすく、一首を読んでクリアに像を結ぶ。

一首の中で体重が乗っているのは初句二句の比喩だが、それ以上に目を引くのは結句の「刃をくぐらせつ」だと思う。鋭利な刃が身と皮との間を進んでゆく様が像を結ぶ。〈剥く〉という表現よりも滑らかに林檎が剥かれていく感じがして、包丁の鋭利な感じや、リンゴと包丁の冷んやりとしたイメージが伝わってくる。それは初句二句の「かなしみを晒すごとくに」という比喩と響き合う。絶妙な語の斡旋だと思う。

刃をくぐらせるという表現からは、リンゴの皮を剥く刃物にピンポイントで焦点が当たっているいるような印象を受ける。たとえば、〈林檎の皮をナイフに剥きつ〉のような表現だと皮を剥く主体に力点があるような気がするのだけど、「くぐらせる」という動詞が用いられることで、刃物がリンゴの皮を剥く動きの解像度が高くなって、リンゴを剥いている刃がクローズアップされる感じがある。
下句の表現は、三句目「灯のしたの」の「の」がリンゴに焦点を当てているイメージを引き継ぐ。たとえば、三句目以下が〈灯のしたに林檎を剥く〉というような表現であれば、リンゴを剥いている主体そのものに焦点が当たるが、「灯のしたの林檎」とすることで、主体ではなくリンゴに焦点が当たり続ける。二句目の「に」との重なりを避ける意図もあろうが印象的な助詞の斡旋だと思う。
初句二句の比喩は剥かれてゆくリンゴにかかっていて、実態を描写した言葉ではないのだけれど、主体の持つ「かなしみ」をどこか照射しているように思う。厨の灯りの下で皮を剥く主体の「かなしみ」、その内実はわからない。しかし、そのぶん純度の高い「かなしみ」が伝達される。それは下句のひんやりとした描写によって、増幅される。
結句に配された「つ」には主体の意思がこもる。リンゴを剥く解像度の高い描写だけで一首は終わらない。ひんやりとしたリンゴや刃物の存在を強く感じた上で、皮を剥いている主体の存在が立ち上がる。
主体の意思が下句に宿ることで、初句の「かなしみ」も主体のものとして回収されるような気がするのだ。
一首は台所でリンゴの皮を剥く一瞬を切り取っている。しかし、「刃をくぐらせつ」によって皮が滑らかに剥かれる像が動きを伴って結ばれ、初句二句の比喩はどこかひえびえとした「かなしみ」を感じさせる。染野太朗が「横山の歌は、眼差しの対空時間がとても長いと思う」(日々のクオリア 2018.11.22 https://sunagoya.com/tanka/?p=19528)と書いていたのを、一首を読みながら思い出す。

一首が切り取るのはある一瞬だ。その一瞬から、リンゴの皮が剥かれていく時間の経過が感じられ、感情という観念の世界に広がりを持つ。なんて豊かな一瞬だろうと思う。

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