数又 みはる『石榴の木のある家』(青磁社 2016年)
実家を訪れ、帰るときの歌だろうか。母が玄関先で自分を見送っている。
「翳る軒先」からは、昔ながらの瓦葺き、萱葺きの大きな家が彷彿とする。昔の家は軒が深く、雨雪や風から、壁や板戸を守っている。軒下を作業場・干し場として活用することもできる。しかし、その分、家内まで日光が届きづらく、暗く寒い。 実際にはどんな家屋かわからないが、「地蔵」という喩とも相まって、そんなイメージがもたらされる。
そう、地蔵。
母が地蔵であるという比喩はなかなかに過激である。けれど、その分、強い説得力を持つ。地蔵はその場から動かない、動かせない。それは、石でできているからでもあるけれど、何より、そこに据えられた必然性を有するからだ。辻、墓、境界、悲しいことのあった現場……。
この母は家を守っている。家は大切な結界地である。そして、わたしは、その家を出て行った者だ。かつて結界を破って。
冒頭の「振り向いてはいけない」は、直感的な禁忌の意識である。
そのタブーは、日本の葬儀や節分、十三参りの際の風習や、昔話、「ギリシャ神話」で冥界に亡き妻を連れ戻しに行ったオルフェウス、「旧約聖書」で振り向いて塩の柱になったロトの妻の話等々、多くの伝承や神話の中で見られる。
この作品も、その系譜のなかにあろう。
母のことが好きなのだ、実家が大事なのだ。だから、振り向いてしまいたくなる。だが、わたしはもう、出て行った者である。愛慕の情があるからこそ、後ろ髪が引かれるからこそ、そこをこらえなければならない。振り向いたら 何かが変質してしまう。
母は、何も言わない。翳りのなかで表情もわからない。ただ地蔵のように立っているだけだ。けれど、わたしを思いやっている。地蔵は、子どもの守り神でもある。
だからこそ。その気持ちがわかるからこそ、「振り向いてはいけない」。
いけないのだ。