大林 明彦『きみはねむれるか』(反措定出版局 1975年)
「おいしかったか/わがちちうえは」 衝撃的な表現である。
「鱶」はサメのこと。「ちちうえ」は、鱶に食べられてしまったのだろうか。
しかし、食べただろう側の鱶は泪をひとすじ流している。
これは、何の泪だろう。罪の意識か。後悔の念か。
集中の歌を引く。
五千メートルの海底に突き刺さりたる廃艦にいま父はめざめよ
レイテ島の海しんかんと凪ぐ夜のそこより父の軍歌きこゆる
こうしてみると。父は先の戦争中、従軍していたようだ。そして兵として海で亡くなった。
つまり、ここでわかってくるのは、鱶が父を食い殺したのではないということである。軍艦の沈没により海の中で息絶えていた父を鱶が食べた、その可能性が高い。
してみると、鱶が流した泪とはどういうものだろう。
肉食の鱶は、父に食らい付くしかなかった。それが生き物の掟であるから。
しかし父は? 死ぬしかなかったのか? あの時、あの時代、どうしようもなかったことなのか?
死者を食べることで悼む、という方法がある。葬送場面でのカニバリズムはかつて、パプアニューギニアのある部族で行われていたし、日本のある地域でも行われていたという伝承がある。また、「骨噛み」と言い、遺骨を食べたり噛んだりする風習もあった。今でも、密やかに、遺骨のかけらをかじる方がいるのではないだろうか。
身の内にその存在を取り込む。奥深く沈める。溶け合う。
そのとき、鱶は父である。父は鱶である。
ならば、鱶の流した泪とは。
そうしてまた、「おいしかったか」という、この何という問い。
せめても、こう訊ねざるをえなかった、静かで激しいわたしの心を思う。
「わが」ちちうえ。わたしのちちうえ。
鱶に訊ねながらわたしは、鱶の内なるちちうえを見ている。
先の大戦。たくさんの「ちちうえ」がいたのだろう。遺体も遺骨も戻らなかった「ちちうえ」が。
そして、「ちちうえ」を待つたくさんの人々がいたのだろう。
(原本は三行分かち書きである。)