飢ゑきれぬ腑のごときもの青竹の空洞といふさびしき宇宙

喜多弘樹『銀河聚楽』東邦出版,1994年

梅雨に入り、折りそびれた筍がずいぶんと立派に成長している。
竹の成長速度は驚くほど速い。竹の空洞はこの成長速度の帰結らしい。外側の細胞が早く成長し、結果的に空洞が生じる。筍には節がたくさんあるが、それがあんなことになると思うと不思議な心地がする。そもそも、竹はイネ科植物なので、平常の認識で推し量るのが難しい植物な気がする。

一首が着目するのは青竹の空洞だ。その空洞を「飢ゑきれぬ腑」だという。
〈飢ゑ知らぬ〉ではなく「飢ゑきれぬ」なので、いくばくかの「飢ゑ」は前提とされているように思う。
急速に成長し、昨年から生えていた竹とみまごうような竹を眺めていると、(それだけ早く大人になってかなしくないかな…)などと要らぬことを考えてしまう。
おそらく、青竹に感じた〈飢餓感〉も、その〈飢餓感〉の不徹底さも、「空洞」も、さびしさも、主体のものでもあるのだろう。「青竹」という語感からは〈若さ〉の気配が漂う。

空洞の中はまごうことなき暗闇だろう。竹は様々な用途に利用されているので、空洞の中身は見たことがあるし、想像もできるのだけど、暗闇の中は想像の埒外だ。見たことがある空洞、その持ち主である竹は、切り倒されて死を迎えているだろう。

結句の「宇宙」によって一首のスケールは大きなものとなる。生きている竹の内部にある暗闇は不可知なものだ。切られて光が入る前の暗闇が宇宙でないとは決して言えないような気がする。宇宙と対比された竹の暗闇には小さな驚きと、生命の不思議さのようなものがある。

竹群のあをきさやぎに眠りなば銀河系たてり狂気の昼を/喜多弘樹『銀河聚楽』
半天に冬の銀河のかかりゐて今沖つ藻のなびきに眠る
燈籠を流せる海に祈るべし読経のこゑは他界の火群ほむら

「銀河」、「他界」と遥かな場所が提示されるのだけれど、日常から飛ぶというよりは、遥かな場所が日常に内在するとい印象がある。
世界の深さを測ることはできない。だからこそ、一首の歌が存在する美しさがある。

両のにくらき銀河のあふるるをとどめがたしも車窓の夜は/喜多弘樹『銀河聚楽』

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