中沢 直人『極圏の光』(本阿弥書店 2009年)
洗面所だろうか。暖色のハブラシがならんでいる。
朝晩、朝晩、毎日毎日、歯を磨くときにハブラシを握るからには、その「色」のチョイスは需要だ。ここでは暖色が選ばれている。とてもいいと思う。
ピンク、赤、オレンジ、黄色 。心も明るんでくるというものだ。
日常の中にはたくさんの「選択」がある。買い物一つ取っても、何をカゴに入れ、何を手放すか。
ハブラシについても、とてもたくさんの種類が置かれている。サイズ、毛の硬さ、毛先のカットの仕方、柄の曲がり具合……。それらを、値段と折り合いを付けつつ選んでゆく。
そして色においては、暖かいものが選ばれた。
選んだのは父母のどちらかであろう。(もしか、家にストックしてあったものの中から拾い上げられたのかもしれないが)
その選びは、無意識の祈りである。選びには、暮らしをぬくもりあるものにしたい、日々を晴れやかな気持ちで過ごしたいという心の奥の気持ちが映っている。それは、生きることへの姿勢・価値観の投影と言い換えてもいい。
少しでも明るく。
ささやかで当然の願いである。
と、ここまではいい。下句である。
下句は哀切だ。そういう父母が損をしてきたのだ。
まともに暮らそうとしてきたのだと思う。そのまともさは、世の中を巧みに渡っていく術の前に、時に翳ってしまう。たとえば、クリック一つで何百万円も稼ぎ出す人もいる。そういうものの裏側にある、正直に生きるほどに損をしてしまうあわれさが、庶民の暮らしにはつきまとう。
ささやかに明るく暮らしたいという願いが必ずしも報われない現実。
「正直に損を」するということ。
なんだかなあ、と思う。
でも。
結句の「想いぬ」はせつなくて優しい「想いぬ」だ。
暖色の「暖」と「想いぬ」が引き合う。歌を包む。
この歌を、実家ではなく、全く別の場所で暖色のハブラシを見て、父母を連想したときのものと取ることもできる。ハブラシのヘッドほどの小さくささやかな父母。つつましやかにならんでいる。