河合育子『春の質量』短歌研究社,2022年
主体はひと束の紙を持っていて、その紙に重みを感じている。主体の眼前の景はありふれた日常のひとコマだが、一首が提示するイメージは重層的だ。
初句ではかつて木であったことが提示されるが、主語が欠落しているのでとりあえず主体を主語として読みはじめる。鬱蒼とした森の中に雨が降っているイメージが上句で提示される。ひとの気配はしない。静かな森だ。
下句でひと束の紙を持つ主体が現れる。上句のイメージを引きずっているので、森の中で重たそうに紙を抱える主体が像を結ぶのだけれど、結語の「は」によって倒置かもしれないなと思い直す。木だったのは主体なのか紙なのか、あるいはそのいずれでもないのか、考えながらもう一度読む。
理屈を付けてしまえば、抱えている紙束の重たさがまずあって、そこに紙の原料である木のイメージが重なって、重さの理由としてかつて木であった事実や、そこに降っている雨が、〈重さの理由〉として述べられていると読めなくもない。
それだとしても、上句によって立ち上げられた森のイメージが下句を包み込む。主体の先の世が木であったことに異を唱える論理的な反証材料を読者は持たない。日常動作から膨らんだイメージを読者は愉しむことができる。
雨の気配や、森の気配がどこまでが喩で、どこまでが眼前の景なのかは判断が難しい。しかし、そんな理知的な判断を飛び越えて、一首が提示するイメージは読者に伝達される。
しづかなる朝の土俵をおもひつつしつかりと拭く職場の机/河合育子『春の質量』
全体重かけつつ南瓜切りしのち南瓜ひとつぶん息を吐きたり
体よりはみ出しながら伸びをしてしろき月夜にしんとつながる
花ちさき満天星覗きつつ花よりちさきわたしとなりぬ
日常動作とそこから少しはみ出したイメージが同居した一首が歌集には多く収録されている。一首の中において日常的な景と、そこから少し離れた情報が結ばれて詩が生まれる。
その詩を愉しむとき、短歌として昇華され得る日常の豊かさをあらためて感じるのだ。
蟬声の銀のひびきのただ中のわたしは落下しつづける滝/河合育子『春の質量』