吉村 明美『HAFU』(ながらみ書房 2001年)
傘を新調した。おそらくはビニール傘ではない、それなりにしっかりとした傘を。
だが、何かしっくり来ない。
大きすぎるのだ。
自らに、というよりは、「この町」に。
あまり気にしたことはなかったが、確かに傘にもいろいろなサイズがある。見た目は同じように見えても、さしてみれば、その差は明確に感じられる。大きめ、小さめ、深め、浅め……。
そのようなところへの生理的な感覚は、結構鋭敏なのではないだろうか。
傘専門店ではオーダーメイドもできるらしいが、その製作に当たっては、柄や素材の好みとともに、いかに当人にとって心地よく、しっくりくる大きさか、形状かというあたりが探られるのだと思う。
自分と「傘」との関係性の、模索・摺り合わせである。
そして、この歌では、さらに、「町」との調整が必要だったのだが……そこは上手くいかなかった。
興味深い。
傘が町へなじむかどうかという視点がである。
確かに、傘は「町」へと組み入れられるものである。新しく挿入される異物である。ならば、そこに違和感が生じることもあろう。
別の町ならいいのかもしれない。この傘にぴったりと合うのかもしれない。
でも、この町では。
そこを主体は直感的に摑んだ。
どういう「町」なのか。二つ、考えてみた。
一つは、人の多い町。
たとえば、雨の駅前。傘を差す人で溢れる。すると、大きな傘では他とぶつかってしまう。混んでいる商店街も大きな傘では進みづらい。現実的な理由からの考察である。
もう一つは、心理的なところから。
「大きすぎた」の「すぎた」は、より小さくあるべきだという認識の裏返しである。大きくたっていい、大きい方がいいと思っていれば、このような違和感は生じない。
この町は、普通の傘で十分な町。そこにいま所属するわたしも、普通の傘で十分。そんなセルフイメージが映し出されてはいないだろうか。
ただ、このちぐはぐ感は、そのうち薄れよう。
さしているうちに、感覚は変わる。それは、この町に傘がなじむということでもある。
あるいは、違和感があったとしても。気にしなくなる。今だって、なんだかんだ言っても、この傘で「歩」いているのだし。
それが生きるということか。些細なところを置き捨てにして。でも、最初に「大きすぎた」と思われたことも、思った自分も、何となく大切にはして欲しくて。
過去の助動詞の「し」と「た」が一首の中で使い分けられている。文語「し」は地の文としての働きを、口語「た」は心理の表出の役割を、それぞれの持ち味に沿って果たしている。