たつぷりと遊びつくしたあとに来る小筆のやうなさびしさがある

山木礼子『太陽の横』短歌研究社,2021年

楽しい時間には必ず終わりがくる。「遊び」とあるので、仕事や学業上の充実した時間ではない。もっと純粋な遊びの時間だろう。

遊んだな!と強く思うような時間が終わったあと、じんわりとやって来る感情はたしかに存在する。明日が来れば日常にまた戻ってしまう。明日の朝ごはんのことや、明日の予定を鑑みた寝入りの時間がよぎり、日常への助走は帰路にはすでにはじまる。楽しかった時間の終わりが強く意識され、そして、たっぷりと遊んだ倦怠感と楽しさを反芻する幸福感のなかで、じんわりと訪れる重たい感覚がある。それを「さびしさ」と呼べば、それはもうさびしさとしか感じられない。

〈たつぷりと遊んだ〉のではなく、「たつぷりと遊びつくした」のだ。初句二句には微妙な重複感とズレがある。前者は一般的に用いられる表現だが、後者には若干あやうさのようなものがあるような気がする。「たつぷりと」という副詞句が意味するのは量や程度だと思うのだけど、それを受ける「遊びつくした」という動詞には量や程度を直接付与することができない気がする。一首は微かな違和感を湛えたまま下句に向かう。遊びのあとの高揚と倦怠が滲んだような印象が生じる。また、「たつぷりと」の初句から、「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」(河野裕子『桜森』)のような先行歌が想起され、提示されている質量に奥行きが生まれている。

一首の眼目は「小筆のやうなさびしさ」という比喩だろう。小筆とさびしさの間にいくらでも理屈をつけることはできる。大筆に比べてスケールが小さいことから感じるさみしさ、毛筆を書き終わり名前を付すのに使われる終焉を意味するさみしさ、小筆というノスタルジックな言葉が持つ本質的なさみしさ…などなど、さみしさと小筆を結びつける解釈はいく通りも存在するだろう。ただ、そんな理知的な解釈を越えて、小筆はさみしい。評としては不適当なのだけど、そこには理屈を超えた納得感がある気がする。小筆という語の斡旋は適切であり、鋭い。

本歌が収録されている連作「目覚めればあしたは」は博物館での逢瀬を題材としていて、基本は連作に据えられた時間の流れの中で読むのだけど、一首抜粋しても鑑賞の大枠は変わらない。むしろ、一首を抜き出して鑑賞した方が、読者が代入できる余地は広くなり、鑑賞の幅は広がるだろう。

そもそも、生きているとさびしい。だけど、さびしさに慣れてしまうと、さびしいという認識は生じなくなる。遊び終わったあとにのしかかってくるさみしさによって、本来存在しているはずのさみしさを再認識できるのかもしれない。一首を読んでそんなことを思う。

だれからも疎まれながら深々と孤独でゐたい 月曜のやうに/山木礼子『太陽の横』

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