木下 龍也『オールアラウンドユー』(ナナロク社 2022年)
詩とは何だろう、はるか大昔の呪誦から始まり、ギルガメッシュの英雄譚や、ホメロスの叙事詩、「マハーバーラタ」、「ラーマーヤナ」。それから、叙情詩、叙景詩、劇詩。ソネット、漢詩。新体詩、和歌、短歌、俳句……。
口頭伝承の領域とも関わり合いながら、それぞれの国で、様々な言語で、いろいろな形式で、長い長い間、詩は紡がれてきた。
では、ことに現代における詩とは何かと言えば、詩はすべてが「さみしい」という4文字のバリエーション つまり、形を変えた「さみしい」が詩なのだと言う。
そうだ、と思う。真実を看破されたごとくに思う。
同時に、少し疑ってみる。そうだろうか。記憶の中の「詩」を引っ張りだし、柔らかく点検する。詩の隅々にある、「さ・み・し・い」のかけらを探す。詩を書き出そうとしたあの日の気持ちを想起する。そして、ああ、確かに、表現としては明るく楽しくても、「詩」というものには「さみしい」があるなあと納得する。
それは、「詩」というものが、私たちの生と結びついていて、生きることからは、どうしても「さみしい」を拭い去れないからだろう。
よく言われるのは、幸せで元気が満ち溢れているときは詩などは意識にのぼらず、ふっと弱ったり、迷ったり、さみしくなったり、そんな時に、傍らにある詩に目が留まったり、書きたくなったりするということ。
確かに。そこに人が詩を手放せずに来た理由もあるのだろう。
が。そうなのだが。
歌の最後の「、けれど」で、それらがひっくり返される。
詩はすべてが「さみしい」の言い換えであることを大前提としながらも、そうでない可能性があることが、示唆されるのだ。
「けれど」の後の可能性、それは、おのおのが受け取るものだけれど、きっとそこには明るいものもあるはずで。
そして、主体の、詩に向かい合い続けるという覚悟も感じられるはずで。
「過ぎないけれど」となめらかに流したのではなく、「過ぎない、けれど」という、断念の後にまた立ち上がるような逆接。
そこから開かれ始めたものがある。苦みの中にも新しい何かが。それは、詩の未来と繋がっている予感がする。