小島ゆかり『憂春』角川書店,2005年
通話が終わったのか、メールを確認し終えたのか。街頭で発生したなんらかの用事が終わって、主体は携帯電話をたたむ。そして、そのように心もたたむのだという。使われているのはスマートフォンではなく、二つ折り式のガラケーだ。
二つ折りの携帯電話はパカパカと開け閉めをして使う。用事が終わればぱたりと閉じるので、そこで一区切り感が強く生じる。用途がかなり広いスマートフォンとは異なり、ガラケーはできることが限られていたので、携帯電話を使用している・していないの切り替えはかなりはっきりしていたように思う。
一首では、用事を終えて携帯電話をぱきんと閉じる。「ぱきん」という擬音には、〈ぱたり〉や〈ぱかり〉などと比べると力が籠っている感じがあって、またその語感からどこか脆さというか破損を連想する。届いたメールや電話で話した内容が、いくらかしんどいものだったのかと想像したりもする。
下句に至り、主体は携帯電話同様に心もたたむ。感情を閉ざしたようにも、心を揺さぶる情報に蓋をしたようにも感じられる。結句で、主体の立ち位置が明示され、一首の景が立ち上がる。少しだけものさびしく、ひんやりとしてきた秋という季節は四句目までの空気にそぐう。また、他者の存在が感じられる街角という場所も、四句目までの周囲から隔絶された主体との対比がある。携帯電話をたたみ、心をたたんだことで、街角の人や物が色彩を帯びるような印象もある。
スマートフォンが主流になる以前は、二つ折りの携帯電話が主流だった。二つ折りの携帯電話は今も存在しないわけではないけれども、今では携帯電話というとスマートフォンを思い浮かべてしまう。
受話器まだてのひらに重かりしころその漆黒は息に曇りき/大辻隆弘『抱擁韻』
いま駅に着いたところ、と母に言う市外局番今日は押さずに/吉川宏志『青蟬』
さほど長くはない期間で、電話はずいぶんと外形やあり方をかえてきたように思う。「携帯電話ぱきんとたたみ」を読者が十全に理解できなくなる日はいずれ来てしまうかも知れない。加えて引いた二首の黒電話の質感や、地元駅の公衆電話から市外局番無しで電話を掛ける安堵感は、さらに現在の電話事情からは遠い。
消滅してゆく生活実感は時にさみしいものだ。その生活実感を生み出す具象が存在しなくなれば、日常的には意識されなくなっていく。当時は何気ないものだった生活実感が一首の歌に詠み込まれ、年月を経てその歌に出会うと不思議ななつかしさをおぼえる。
それは一首が作られた意図とは明確に異なるのだけど、懐かしい感情に再会したようで、なんとなく嬉しい。