一両で走る電車を風と呼ぶそう決めたひとりの多数決

鈴木 晴香『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房  2016年)

 

 どこかへ旅に出たのだろうか。高原、田園。辺りを見渡せる広々とした空間が、まず、イメージされた。あるいは、日々の生活圏にある線路脇の道でもいい。いずれ、そこを、一両の電車が行く。乗客は少ないのだろう、一両で事足りるほどであるから。だが、意外にスピードが出ていて、心地よさが感じられた。季節と風景と電車とがマッチして、主体の心を動かした。電車は風だ。風のようだと思われたのだ。

 この時、主体自身が電車に乗っていたと解釈してもいい。あるいは、そういう景色を眺めていたととってもいいだろう。

 

 「ひとりの多数決」という言い方が魅力的で、それは、措辞の矛盾が私たちを立ち止まらせるからだ。普通、ひとりでは多数決は行わない、行えない。でも、もし、してみたとすれば  。そう、 1/1、完全な多数決が成立する。つまりそれは、絶対的にそう感じられたということの言い換えであり、思いの強さと高揚感に溢れているところ。この電車を「風」と、どうしても呼びたいのだと。

 

 その気持ちは韻律にも表れていて、四句目「そう決めた」から間髪を容れず「ひと」へと続き、ここでピークを迎え、一呼吸入れた後、「りの多数決」となだらかに下ってゆく。この句跨がりに心の昂ぶりが窺える。

 

 思えば、自分の意見と、他者の意見との摺り合わせの中で私達は生きている。自分の気持ちより、他の人の意向や事情を気にしたり、尊重してしまったりする場面も少なくないだろう。その「他者」は、具体的な周囲の人々のみならず、世間という大きな力であったり、時には、自分自身が作り出した幻影としての見えない他者であったりもする。「多数決」という方法は、小学校の学級会を飛び出し、日常の中、さまざまな形で作用している。

 

 であれば、「一両で走る電車を風と呼ぶ」ということは、一般的な見方ではないから、皆に提案しても支持されないかもしれない。つまらない言い方だが、電車は電車だから。多数派にはなりえない意見である。

 

 けれど、かまわない。周りがどう考えようとかまわない。今、私が、まぎれもないこの私が、風と呼びたいと感じ、そうするのだから、それでいい。それが「ひとりの多数決」なのだ。

 

 この歌の爽快感は、心に沿う景色の中を走る「風」の爽快感に加え、たとえひとりの意見だろうと、自分の感覚を信じて立とうとする、その人間が見せる爽快感であるのだろう。

 

 歌の真ん中にある「そう」は風のようだ。

 風に会いたくなった。自分の風に。

 

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