メールにも筆跡がある祖母からのメールはまるで柿の絵てがみ

田村穂隆『湖とファルセット』現代短歌社,2022年

メールにはある程度作法がある。だからだろうか、メールから個性を感じることは手紙などにくらべると少ない。普段は破天荒な振る舞いをするひとや、SNSでむちゃくちゃ尖った発言ばかりしている人でもメールでは妙に礼儀正しかったりする。それでも、個性的なメールに出会うことが時々あって、嬉しかったり、クスッとしたり、ゾッとしたりする。

「メールにも筆跡がある」とあるので、そのひと固有の何かがメールに宿ることがあると感じている。主体が念頭においているのは祖母であり、その筆跡は「まるで柿の絵てがみ」なのだ。柿の絵てがみは「筆跡」という語から想像されるもの軽く超えている。

「メールにも筆跡がある」というときの解釈はいくつかあると思う。例えば、メールから受ける印象が独特である場合。読点を打ちまくる人や、逆にほとんど打たない人、改行位置が個性的な人や、米印やパーレンなどの記号を多用する人。文面を見た段階で固有の印象を受ける場合だ。
また、関係性が近いがゆえに、「筆跡」のようなものを感じる場合もあるだろう。前述の例ほどは個性的ではないけれど、何度もその人とメールのやり取りをする中で、その人の癖が認識できるようになるという状況はあり得る。この人は必ずこの字を平仮名に開くとか、この接続詞を多く使うとか、文末の納め方とか、一読して個性的だとは思わないけれども、やりとりを重ねるうちに、この人のメールはこの辺が特徴的だと思うことがある。
あるいは、その人の声や喋り方を想起させるような文体である場合もあるかも知れない。事務的な連絡でも、この人固有の何かが宿っているように感じられる。相手の個性や関係性の深さなど理由は様々だけれども、そういうことはある。

掲出歌の場合は、この辺りが絡み合って、「メールにも筆跡がある」とい認識に至ったのだろうか。「祖母」と主体との距離の近さ。「祖母」と「メール」の微妙な距離感。「柿の絵てがみ」という「筆跡」から距離のある比喩。「祖母」と「柿の絵てがみ」のイメージの上での近さ。一首の中で様々な要素が絡み合う。祖母から送られてくるメールには、パッと見の個性もあり、また細部にも祖母らしさがあるのではないだろうか。「柿の絵てがみ」という、もはや字でないものを含む妙に味わい深い比喩が、祖母の個性を際立たせる。メールと柿の絵てがみの距離は相当に離れているのだけれど、その距離を無効化するだけの力が、祖母のメールにはあるのだ。メールとは思えないような味わいのある文面が想像される。

LINEやDMでは、「柿の絵てがみ」のような筆跡は生まれにくいような気がする。それらは、メールよりもある程度は書く人の個性を前提とされている。また、「柿の絵てがみ」のような筆跡の祖母とLINEにはいくらか距離がある気もする。
もうすでに、LINEやDMを使いこなす祖母はそこらじゅうに存在することだろう。そうなると、柿の絵てがみを感じさせるメールを打つ祖母は少なくなっていくのかもしれない。
それは、なんだかとてもさみしいような気がする。

この冬は雪が降らないようでして祈りに使う白が足りない/田村穂隆『湖とファルセット』

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