前 登志夫『鳥總立』(砂子屋書房 2003年)
「めぼ」は、所謂「ものもらい」のこと。目のふちやまぶたの辺りに炎症が起き、赤く腫れるあれである。全国各地にて、さまざまな名前で呼ばれているそうだ。「ものもらい」、「めばちこ」、「めかいご」、「お姫さん」、「お客さん」……。私の住むところでは、「ばか」(訛って「ばが」)と言う。「めぼ」は関西に多い呼び名らしい。
いつから始まった風習かはわからないが、関西のいくつかの地域では、ものもらいができると、紙に「めぼ売ります」と書き、電信柱等に貼ったのだそうだ。すると、治る。疾患を売るとは妙ちきりんな発想で、もちろん買う人はいないが、要は自分のところにある「めぼ」を他の人にやってしまいたい、そうすれば自分は治る、という論法なのだろう。
紙を見ただけの人にもうつるという説もあり、これは、うっかりすると恐ろしいことになりそうだ。
この歌がある一連には、「山の邊の道にて」という詞書がある。
旅の途中、〈めぼ賣ります〉という紙が貼られたムラを通った。今でも実際にこういう習慣が生きている「邑」を。「村」よりも「邑」には、氏族の結びつきが強く、囲われた土地というニュアンスがあるそうだ。古代の香りがする字である。
そこを過ぎると、「國原」 国の広々としたところに出た。「國原」といえば、大和の国原。『万葉集』巻一の二番歌で舒明天皇が国見をした時の歌にも出てくる言葉である。具体的には、奈良盆地、ひいては、日本のことを指しているだろう。この「國原」は現前のものでありながら、古代の國原でもある。「眩暈のごと」が、時空が歪む感覚や多層的な土地の在りようを引っ張ってくる。
そして、その現代と古代をつなぐルートが〈めぼ賣ります〉の紙の邑そのものなのだろう。この邑自体が、世の中の時間の流れから取り残されたような不思議な位置にある。民間伝承の息づく場所。人の気はなく、紙だけが貼られていて。「過ぎて」はさらりと詠み込まれた言葉かもしれないが、その役割は大きい。この一語で、大きく歌が展開していく。
今、どこにいるかわからなくなってくるのだ。國原は、眩暈のように不確かなものに感じられてくるから。
ジブリ映画の「千と千尋の神隠し」の中にも、「めめ」か「めめめめ」という名の店があり、目の形をした看板や「生あります」という看板がかかっていた。「生」は生ビールのことかと思いつつも、もっと怖い「生」も想像させた。〈めぼ賣ります〉にも、そことも共通するような、民話、神話に近い近代以前の世界観がある。
異界にいつか、連れて行かれている。