故郷のたべものばかりを恋うている正しくお腹を空かせた後は

吉野亜矢『滴る木』ながらみ書房,2004年

お腹を空かせた後は故郷の食べ物が恋しくなる。一首が提示している内容に不明瞭なところはない。内容としてもわかりやすく、納得感もある。だけれど、どこか過剰な印象を受ける。

「ばかり」と「正しく」は、それぞれ上句と下句で状況を限定させて、一首の中でかなり強く響く。上句では空腹時に恋うものを故郷の食べ物のみに限定し、下句ではお腹が空いている状態ではなく「正しく」お腹が空いている状態に限定する。そして、上句と下句の限定は結びつき、〈正しくお腹を空かせ故郷の食べ物ばかりを恋う〉という状況が提示される。

正しい空腹とはなんだろうか。おそらく、空腹には種類があるのだろう。とりあえず、簡単には埋めることができない空腹、そんな空腹をイメージする。たとえば、規則正しく三食の手前に感じるような、ある種の形式的な空腹ではなく、すぐに満たすことのできないような飢餓感に近いような空腹。そのような状況においては、原初的な記憶である「故郷のたべもの」ばかりが脳裏をかすめてしまうような気がする。

掲出歌を含む一連は、「われ、亡命者として」という題が付されている。一連には「血をはぐれ国をはぐれてなおもまた国に頼りて存えんとす」というような歌が配され、亡命者になり変わって詠われているかのような印象を受ける。一連の中で一首を読むと、「故郷」や「空腹」が極端な重みを持つ。本当の意味での故郷の食べ物はもう食べれないかもしれない。空腹を本質的に満たすことはもうできないかもしれない。そんな深刻な印象を受ける。

ただ、一連を通じて生まれるその重みは、掲出歌一首を抜き出して鑑賞する際にもかすかに残る。それは、前述の語の斡旋にもよるだろうし、「故郷」と「たべもの」の取り合わせにもよるだろう。故郷から離れて暮らしていると口にできない食べ物はいくらでもあって、この一首を読みながらそんな故郷の食べ物のことを思ったりする。祖母が作ったしじみの味噌汁、香茸のおにぎり、そんなものを想像しながら、故郷の食べ物と正しい空腹のことを考えるのだ。

オーブンに灯る明かりを見つめれば海へ通じるトンネルの中/吉野亜矢『滴る木』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です