救われることもすくうこともなく葡萄畑の上の三日月

田中 拓也『夏引』(ながらみ書房  2000年)

 

 葡萄畑の上に月が懸かっている。三日月である。

 葡萄の棚はそれほど丈が高くない。日当たりの良い平地や斜面に、低く平らに広がっている。ということは、一つの景色として見た時に、葡萄畑と月には距離があるということだ。

 その隔たりは、上句の「救われることもすくうこともなく」という言葉と呼応する。遠い遠い二者というものが、葡萄畑と三日月とが形作る光景にまざまざと表れているのだ。

 情+景の作り方。この構造の確かさを改めて信頼する。

 

 「救われること」と「すくうこと」という対照的な言葉からは、人の世でのさまざまな関係性が想像される。例えば職場で。例えば、家族と、友人と、恋人と。よくよく考えてみれば、互いに、救われるところもすくっているところも、なくはないのだろうが、この夜はそう言い切りたかった。きっぱりとぴしゃりと。三日月は空に、孤高の冴えた光を投げている。

 「すくう」は「救う」だけれど、「三日月」と関わらせて読む時、「掬う」というイメージも過る。水を汲み上げる器のような。両者の語源は同じだそうだ。優しく拾い上げて。しかし、それは叶わない。できない。

 

 葡萄と月と言えば、佐佐木信綱の、

 

幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ    『思草』

 

が思い出される。こちらでは、幼い人たちには幼い人たちなりの話があって、月が沈みそうになるまで仲良く語らっているが、掲出歌では、大人になったある一人の、虚無感にも似た寂寥感が詠われていて、比べてみると、その寒々しさが際立ってくる。

 

 月は遠い。遠いなあ。

 夜は深まっていくけれど。

 

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