十月の跳び箱すがし走り来て少年少女ぱつと脚ひらく

栗木 京子『綺羅』(河出書房新社  1994年)

 

 国民の祝日「体育の日」が、いつの間にか「スポーツの日」になっていた。〈十月十日体育の日〉という刻印づけが深いところまで及んでいるので、何かピンとこないところはあるけれど、人と運動との関係性が、より楽しむ方向へと変わってきているのはよくわかる。何にせよ、涼しくなってきたこの時期は、体を動かすのにもってこいだ。

 

 歌にある「十月の跳び箱」のすがしさは、「体育の日」の爽やかな印象と遠く繋がっているように思われる。九月でも十一月でもなく、十月であること。「体育の日」は、第一回目の東京オリンピックの開会式が行われたのを記念して、十月十日に設定されたようだが、その時の、「世界中の青空を、全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和」という、NHKのアナウンサーの実況の言葉が、歌の奥の奥のところに漂っている気がする。

 

 だから、「少年少女」が走っているのも、体育館の中だろうかと思いながら、屋外の、秋空の下でのような気もしている。そうして、どこか空の彼方から走り来るような心持ちにもなる。

 

 「すがし」い歌である。すがしさを呼ぶ仕掛けは他にもあって、まずは二句切れのところ。五七調の素朴さに加え、「すがし」と堂々と言ってしまったすがしさがある。この真直さはいつでも使える手ではないが、文句なくすがしい。

 もう一つは、オノマトペの効果である。そもそも、冒頭で「十月の跳び箱」と、視点が固定されたところに、走り来た子らの脚が「ぱつと」ひらくというつくりになっているので、「ぱつと」というオノマトペの瞬発性を存分に味わえる。

 

 さらに、韻律もすがしい。気持ちがいい。「すがし」、「はしり」、「しょうねん」、「しょうじょ」、「あし」と、「し」の音がたくさん使われ、サ行の爽快感が一首に通徹している。

 

 「少年少女」という言い方は、現代からすればやや古風だが、だからこそ、生真面目さ、一生懸命さが伝わってこよう。跳び箱を跳ぶのは、簡単なことではない。そこには、緊張感や、奮うべき勇気が伴っている。思い切りが良くなければ、怖くて脚をひらくことはできない。そこを乗り越えての「ぱつと」なのだ。おそらくは葛藤を経ての跳躍。だからこそ、すがしい。

 

 助走の音、板を踏み切る音、手をつく音、着地の音。そこに「ぱつと」開かれる脚。……長い間、触れていない跳び箱だが、思い出される感覚がある。

 が、今跳んだなら、「ぱつと」ではなく、別なオノマトペに変容しているに違いない……。

 

 今年は、本日が「スポーツの日」。

 

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