風が苦しみ始めたやうだわたくしの深い疲労に気づいたらしい

岡井隆『阿婆世あばな』砂子屋書房,2022年

一首において風は不思議な存在感がある。
風が苦しむ。具体的な景を想定するなら、屋内にいて強風が窓を揺らす音を聞いている場面や、路上ののぼり旗が凄い勢いではためいている場面なんかを思い浮かべるのだけど、その場合に苦しんでいるのはどちらかというと窓やのぼり旗のような気もする。風が苦しんでいる状況を想定するのは難しいなと思い直す。それでも、物によって行手を阻まれた風が音を立てている様子は、やっぱり苦しむという状態とそぐうような気もしてくる。

一首において、私は深い疲労を感じている。その疲労感と風が苦しみ始めたことが結びつけられているようだ。風と私は本来は連動しないが、「私」はその連動を感じている。「やうだ」「らしい」という措辞により、風の苦しみや私の深い疲労と風の苦しみの連動には不確定な印象が付与されるのだけど、初句七音から詠い出されるゆったりとした一首の韻律が、確信を持っているかのように低く響く。風と私の境界線が薄らいで、風の苦しみと私の深い疲労が繋がっているように感じられる。

あちら側から近づいて来る鳥があるどうすればいいか妻に諮りぬ/岡井隆『阿婆世あばな

歌集中では掲出歌を含む連作の次の連作に収められた一首だが、連作には「消化管出血を疑はれし後 即時」という題が付されており、「鳥」が病や死の喩として機能しているように感じられる。「妻に諮りぬ」という結句からは、妻への信頼や軽やかさを感じるとともに、「諮りぬ」という措辞にはいくばくかの重みがあるように思う。

阿婆世あばな』が遺歌集であり、岡井隆の死をもって幕を閉じるという事実を知っている読者は、これらの歌を読むときに死の気配を濃密に感じてしまう。冒頭の一首からは、風と私の交感の中に異界を覗き込んでいるような手触りや諦念のようなものを感じるし、「深い疲労」からは人生に対する厭いを感じてしまう。また、二首目に引いた歌からは、もっと直接的に死の気配を感じる。

ただ、一方でこれらの歌を完全に境涯に結びつけてもよいのかと悩む。掲題歌のゆったりとした韻律と内容との交錯、二首目の「鳥」という喩と「妻に諮りぬ」という措辞。それだけで歌は完結し、十分に鑑賞することができる。一首から滲む死の気配は、歌が元々有していたものでもあるだろう。

それでも、『阿婆世あばな』を読みながら、岡井隆の歌業を振り返らずにはいられない。現代短歌を最前線で牽引し続けた岡井隆。その生涯の末尾に屹立する一冊は軽やかで、それでいてあまりにも重たい。

生きがたき此ののはてに桃ゑて死もかうせむそのはなざかり/岡井隆『鵞卵亭』

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