一年にひとつずつしか大きくはなれぬ子どもと鴨を見ており

永田紅『いま二センチ』砂子屋書房,2023年

子どもは一年にひとつずつしか大きくはなれない。一首が示す意味内容のあまりの真っ当さに驚いてしまう。

子どもは順を追ってしか大きくなれない。喃語を喋っていた翌日に砲丸を投げたり、蕎麦を打ったり、油絵を描いたりすることは無い。そのような急激な成長は、決してしない。ひとつ、ひとつ、ゆっくりと成長してゆく。一歳の次は二歳であり、その次は三歳だ。それは当たり前のことだし、そのことは多くのひとが自明の知識として備えているものだろう。ただ、その自明の知識が、子育ての最中にある者にとっては重たい意味を持つのかも知れないと、この一首を読むと思う。

油断すると命の危険すらある幼子との生活は大変だろう。意思の疎通が困難であり、危険の伝達もままならない。当然、大人の自由は大きく制限される。その状況下においては、「一年にひとつずつしか大きくはなれぬ」という当たり前の事実には重みがある。意思が明瞭に通い合うようになるにはまだしばらく時間がかかる。自分のことを自己完結できるようになるのはさらに先だ。この生活スタイルは、しばらく続くことになるだろう。

掲出歌の一首前には、「このころのことなあんにも覚えてはいないんだよなと夫はつぶやく」という歌が配されていて、恐らくまだ子は生まれたからさほど経ってはいない。子は「鴨」を鴨としては認識できてはいないだろう。それが、鳥であることも、鴨が浮かんでいる場所が川であること(二首前の歌で川であることが明示されている)も、認識はできないだろう。夫の言うように、子はこの光景を覚えてはいないはずだ。
それでも、一首において主体は「子どもと鴨を見て」いる。この表現は経験の共有があることを前提としているように思う。子どもと鴨がandで結ばれる解釈もあり得なくはないが、とりあえずそれは取らない。
もちろん前述のとおり、子は状況を把握できてはいない。主体はその事実は認識しているだろう。だけれども、「子どもと鴨を見て」いるとしか思えないような感覚が主体には生じているのではないだろうか。そこには、子どもへの心寄せを強く感じる。

子どもは一気に成長することは無いが、逆に言えば、ひとつずつひとつずつ成長する。新たにできることは少しずつ増え、意思の疎通はゆっくりと明瞭になってゆく。それは、尊いことだ。

ゆっくりと成長するであろう子との時間。そのスタート地点からゴールを想像すると遥かなものに感じられるだろう。たくさんの苦難も想像される。だけれど、経験を共有する感覚があればそれはそれは心強い気がするのだ。

それは、一首から未来へ向かう時間への祈りのようにも感じられる。

人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天/永田紅『日輪』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です