一年に一度の排水管掃除の日 やはりあの無愛想なサルトルがきた

西村美佐子『猫の舌』(砂子屋書房  2005年)

 

 今年もあと二ヶ月足らずということで、滞っているいろいろなものを片付けてしまわなくてはならないような気持ちに少しなっている。かつて、「今年の汚れ、今年のうちに」という掃除用洗剤のキャッチフレーズがあったけれど、家の掃除もそのひとつだ。

 年末の大掃除、煤払いにはお歳神様をお迎えするためという儀式的な意味合いがあるが、それはそれとして、実際に今のうちから少しずつ進めていかないと一気には難しい。対象は目に見える箇所だけではない。見えないところもメンテナンスも兼ねてチェックしておいたほうがいいとすれば、なおさら……。

 

 こちらの歌では、一年に一度、排水管掃除を頼んでいる。しっかり一年に一度というところを見ると、マンションなどの管理組合が主導で実施しているものだろうか。

 すると、やってきたのは「無愛想なサルトル」だった。「やはり」とあるので、去年も、あるいはその前の年も、このサルトルが来たのだろう。

 もちろん、来たのはサルトルに似た人なのだけれども、このあだ名の付け方が秀逸だ。「サルトル」は、フランスの思想家で実存主義の人であり、ボーヴォワールのパートナー。それ以上のことは知らないのだが、教科書に顔写真が載っていたのは覚えている。眼鏡をかけた存在感のある顔だった。あだ名は自然に浮かんできたものに違いない。その人の顔と佇まいにより。

 あだ名とはなかなかに奥深いものだ。そもそも、「名」というものはとても神聖なもので、名を尋ね、答えることが婚姻の成立を意味したほどに、その人の命とつながる大切なものである。

 一方で、この掃除人の名前はわからない。訊けばわかるだろうが、社会的な役割の中で動いているこういう場面においては一般的ではない。名を訊くことはプライベートな部分に踏み込むことで、二人の関係性が変わってしまう。

 だから、あだ名をつけた。これは自分なりのその人の把握、ひいてはある種の所有ということになろう。マイ・サルトル。「やはり」には、私のサルトルが来てくれたというかすかな期待がある。

 

 サルトルの伴侶ボーヴォワールは『第二の性』という本で有名で、サルトルとは結婚せずに、パートナーとしてずっと一緒にいた、いわゆる新しい女性の生き方を体現した人であるが、サルトルはその伴侶だ、理解ある間口の広い人に違いない。そういう、イメージも乗っかった、「サルトル」へのかすかな期待……。「無愛想」なところがまた、こちらの持つイメージを保ち続けてくれる。下手にべらべらしゃべられたら台無しだもの……。

 

 より象徴的に読めば、排水管掃除というのは見えない管の中を探っていく行為だ。日々暮らすうちに付着した様々なものに触れながらすっきりさせてゆく。そしてまた、思想家も、見えない管の中を探っていく人ではないか。可視化できないところを何度も洗い出す。そうして、一つのクリアな道筋を示すのだ。

 

 サルトル=排水管掃除人。あながち遠くもなさそうで。

 

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