コンビニの麵麭と水だけ口にしてとがらせてゆく秋の結末

安田茜『結晶質』書肆侃侃房,2023年

表記が印象的な一首。
〈コンビニのパンと水〉であれば、セブンイレブンやローソンに売っているような袋入りの惣菜パンや菓子パンとペットボトル入りのミネラルウォーターの組み合わせを躊躇なく想像するが、「コンビニの麵麭と水」として提示されるともう少し加工度が低いものが想起される。円形やラグビーボール型で硬く素朴なカンパーニュのようなものや、色付きの瓶に入った水なんかが思考をよぎる。
もちろん、コンビニにはそんなものは売っていないので、現実的な読みをすれば前述の〈コンビニのパンと水〉が最終的に像を結ぶのだけど、「麵麭と水」のイメージが微かに残る。「麵麭と水」、「だけ口にする」という語の斡旋からは、どこかキリスト教的なものと重なり、聖なるイメージも帯びる。だけどもそれは、あくまでも〈コンビニのパンと水〉だ。「コンビニ」という限定と、「麵麭と水」の表記の組み合わせによって、一首は不思議な二重性を獲得する。

下句では、秋の結末を(あるいは秋そのものを)尖らせてゆくという抽象的な動作が提示される。
〈とがる〉という動詞と秋の深まりには親和性があるように思う。木々は葉を落として硬質な枝が剥き出しになり、草は枯れて地面が剥き出しになる。稲が満ちていた水田は刈り取られて荒涼としている。
ただ、一首において主体は〈秋がとがる〉と認識しているのではなく、能動的に秋を「とがらせてゆく」のだ。そして、接続助詞「て」によって、「とがらせてゆく」という動作は上句と順接に接続される。

〈コンビニのパンと水〉を飲んだとしても、秋の結末を尖らせることはできないような気がするが、「麵麭と水だけ口に」するのであればもしかしたら尖らせることができるかも知れないなと思う。また、「だけ」という限定によって、主体自身も尖りを帯びてゆくような印象も生じ、日常的な行為であるはずの飲食が、どこか儀式のように感じられる。

「秋の結末」は冬だ。ただ、結句に据えられた「結末」の語気の強さと、上句からただよう聖性によって、それ以上の意味を感じてしまう。季節をとがらせることができるのは神の眷属であろう。主体の世界の中で限定されるのかもしれないけれど、人間よりも大きな存在に接続されるような手触りがある。

秋が終わり冬が訪れる。そのときに存在するであろう冬の私は、秋の私から連続しているはずだけど、本当に連続しているかはわからない。「結末」の果てで私はどうしているのだろうか。そんなことを考えると背筋がひんやりとする。

泣きたくて瑪瑙のようや空の下ゆびわをゆるめたりはずしたり/安田茜『結晶質』

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