魚に鱗、樹木に年輪あることのさびしきあしたぐんと老いにき

大口 玲子『ひたかみ』(雁書館  2005年)

 

 魚には鱗がある。その役割の第一は、鎧のように体を防御することだろうが、実は、鱗からは年齢もわかる。鱗に入っている縞状のすじを数えるのだ。大きめの鱗を光に透かせてみれば、そのすじが良く見える。

 

 樹木には年輪がある。たくさん生長できる季節にはのびのびとして木の色が薄くなり、あまり生長しない季節には詰まって濃くなるので、その粗密の偏りが輪のように見える。そんな模様が「けしき」として愛でられることも多い。

 

 ならば、魚や樹木に年輪があるなら、同じ生き物である「人」にだって  。文字としては書かれていないが、ある朝、脳裏を掠めたのは、この「人にだって」という思いだったろう。すると、途端に自分もぐんと老いてしまった。透きとおる見えないすじが、たくさん身体に刻まれているだろうことに気付いてしまったからだ。

 

 「さびしき」というのは何だろう。その身に時を刻みながら生きて行かねばならない、生き物の宿命へのさびしさだろうか。刻みたくなくても、刻まれてしまうものがある。なぜ。何のために。刻まれ続けても、いつか終わる命なのに。しかも、数々の喜びもつらさも甚だしい捨象化ののちに、今は一本のすじでしかなくて。

 

 一方、「ぐんと老いにき」はドラマチックな変化だ。「にき」は、単に過去を示すのではなく、「~してしまった」という、取り返しがつかないほど老いが急速に進んだことの強調になっている。むろん、心が老いた(気がした)ということなのだが。

 これまで思い至らなかった生というもののある部分に触れてしまった今となっては、もう戻れはしない。また、刻まれたもの自体もなかったことにはできない。

 

 透明な年輪が私たちに刻まれている。たくさんのすじ。

 身体を光に透かせば、ひととき、浮かび上がるだろうか。

 それは、さびしいものだろうか。

 

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