吉岡 太朗『ひだりききの機械』(短歌研究社 2014年)
時間というのは本当に不思議なもので、捕らえどころがない。「今」はあっという間に過去になってしまう。どんなに頑張って「今」を捕まえようと思っても、「今」と思った瞬間にそれは過去になってしまう。もっと頑張ってとても素速く「今っ」と思っても、〇コンマ一秒の世界ではもう過去なわけで……。
それで、そんな時間の中に「わたし」というものが在るのだが、まあほとんどの場合、「わたし」は、一秒前の「わたし」と何ら変わりない。だが、きっと違うのだろう。見えないけれど、気付かないけれど、少なくとも細胞レベルでは異なる「わたし」であるのだ。
では、一秒前の「わたし」はどこへ行ってしまったのだろう。今の「わたし」ではない別の存在ならば、どこで何をしているのだろうか。
この歌では、そんな過去の「わたし」は殺されたと把握されている。「連続わたし殺人事件」 そう次々に。
そうして、「抜けてきたすべての道」である過去の全部も、もうおぼろだ。「露」という古典文学における王道の比喩を用いつつ、過去が今となっては儚く消え去ったことが情趣をもって語られている。
では、誰が殺したのか。今のわたしのみが生き延びているのだとしたら、殺人犯は「今のわたし」か! 過去のわたしを全て殺してきた。億や兆のレベルではなく次々に。シリアルキラーもいいところだ。
しかし、その犯人自身もまたすぐに殺されて……。
一方で、「連続わたし殺人事件」という事件名を付けたのは、やはり刑事ということになろうか。この事件の謎を、真相を、解かねばならないという意志を持つ者の存在もこの歌から感じられる。
……どうしようもないことだけれど、この殺人事件、どうしようもないのだろうか。何かを殺して今の自分があるという図式にフォーカスして行くと、単なる着想の優れた面白い歌として楽しんで良いのかと、ふと思えてきて……。
草ぼうぼうの原っぱが思い浮かぶ。もう夏草の勢いはなく、立ち枯れているものも変色しているものもある。そこに露が降りて、きらめいて、肌寒くて。そんな草の中をかき分けてすり抜けてここまで来た、逃亡犯のように。
全てのわたしを殺してきたわたし。
しかしすぐに殺されるわたし。
もしかしたらすでに殺されているわたし。
こうしている今も、刻々と殺人事件は起き続ける 。