幼名で吾を呼ぶ誰かたましいはこんなところに紛れて花野

桂保子『青い封書』ながらみ書房,1996年

ずいぶんと長い間呼ばれていない呼び名がある。小さい頃に呼ばれていて、今は誰も呼ばないような呼び名。何かの拍子でふっと思い出すそんな名前、一首を読んでまず浮かんだのはそんなイメージだ。

もちろん、「幼名」は徳川家にとっての竹千代のように、元服以前に付される童名だ。現代で使用されるのは稀有なので、前述のようなものがまず思い浮かぶ。

一首の解釈は多義的で、初句二句の解釈だけでも幾通りか思い浮かぶ。前述のように「幼名」を幼い頃に呼ばれていた呼び名としてやや破格に用いている解釈のほかに、主体が本当に改名をして幼名を持っている、一首の主体は幼名を持っている近世以前の人物である、幼名など事実としては存在しないけど自分で自分に付した名前があった、などなどあって、読みをひとつに収斂させるのは難しい。ただ、いずれにせよ、過ぎ去った時間への憧憬が強く滲む。魅力的なフレーズだと思う。

初句二句で主体は幼名で主体を呼ぶ声を認識するが、それが誰の声かはわからない。夢幻のようにも感じられる。そのイメージは三句目以降にも引き継がれ、「たましい」、「花野」と抽象度の高い語句が配されている。実際に秋の花が咲いている場所に主体が立っている可能性もあるが、どちらかといえば心象風景に近いイメージだ。一首における「花野」の美しさは具体的な美というよりは、言葉が織りなす帰結という感じがする。意味合いは少し違うが、芭蕉の「奥の細道」で曾良が詠んだ「行々てたふれ伏すとも萩の原」を思い浮かべたが、掲出歌の方が抽象度が高く像の結び方が淡い。

前述の花野の解釈以外にも、三句目以下の解釈には分岐が多くあり、「たましい」の持ち主が主体か、幼い主体か、幼名を呼んだ誰かか、幼名を呼んでいた誰かなど幾通りもあり得るなど、初句二句同様ひとつの解釈には収斂しない。ただ、初句二句と同じく、過去への憧憬のようなものが強く滲み、解釈しきれない不全感は薄い。

母の忌に母のあんず酒分け合いてうすくれないの母を揺らしぬ/桂保子『青い封筒』
われの名もここにこうして記されてはるけきかもよ父の手帳は
海に母、斧に父あるかなしさよ鏡の奥は春みぞれ雪

掲出歌に先立って、歌集中にはおそらく既に故人となっている父母の歌が配されている。そのイメージを曳きながら掲出歌を読むと、そこにある過去への情景のような印象は一層強く感じられる。

一首に込められた夢幻のようなイメージは美しく、そして、どこかもの悲しくもある。

飛龍頭の銀杏ひとつころがりて光陰矢のごとしと誰かつぶやく/桂保子『青い封書』

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