一筵ひとむしろの唐辛子のうへよぎらんと白猫はあかく燃えつつ燃えず

小中 英之『過客』(砂子屋書房  2003年)

 

 一昔前の庭先には、筵やざる、木箱の上に、豆や野菜や果実が干されている光景があった。今となっては懐かしい。それは、冬への備えとしての大事な作業でありつつ、干されているものたちも陽射しをたっぷりと浴び、ひととき、緩やかにくつろいでいるようだった。のどかだった。

 今も、「ちょい干し」という形で、天日干しは一部で流行っている。少し干すだけで旨味も栄養価もぐっと増すということが、健康番組によって知られたからだ。

 昔からの知恵というのは理に適っている。

 

 唐辛子はちょうど今頃までが収穫期だろうか。なぜあんなに赤いのかと思うけれど、鳥などの食欲をそそり、食べられて、種を遠くまで運んでもらうための唐辛子たちの戦略なのだろう。

 それらが一枚の筵の上に広げて干してある。そこを白い猫が通る。赤と白。はっとする色彩の取り合わせだ。

 猫は唐辛子には見向きもしない。避けることもなく、堂々とその上を過ぎてゆく。そのとき、白猫の毛並みに唐辛子の赤が映った、まるで燃えつくように。いや、燃えたのだ。いや、燃えたのか? そう思わせるほどに唐辛子の赤は、つやつやと強烈に、照っていた。

 

 興味深いのは、下句の「あかく燃えつつ燃えず」のところ。歌なのだから、燃やしてしまっても構わなかった。しかし、燃えたように見えたけれど燃えなかったということを詠んだところで、絶妙の風情が生まれたように思われる。燃えたのかと期待した気持ちが下がってきて、残念なような、やっぱりねと思うような、苦味や安堵感が入り交じった感情が広がる。それを噛み締める歌。

 それでも、二度使われた「燃」の残像は打ち消しがたく、やはりちらちらと燃えている光景が浮かんでくるのだ。

 唐辛子の辛味もまた「燃」と結びつく。辛い物を食べれば熱くなり、汗が出てくるし、「口から火を噴く」などという表現も用いられているから。

 

 自らの上を踏んでゆく白猫。それを唐辛子は赤く染めることができなかった。白猫を赤の世界には、取り込めなかった。

 

 源平合戦の赤白。出生の赤・葬送の白。陰陽五行では赤は火で夏、白は金で秋。互いに争う、相剋の関係にある。

 一瞬の緊張状態。

 しかし、「燃えず」  世はこともなし。

 

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