太陽がだんだん弱くなる日々のうつろになってゆく広葉樹

東直子『十階』ふらんす堂,2010年

夏が終わり秋が到来して、陽光はだんだんと弱くなる。晴れていても日陰にいれば肌寒いし、取り入れた洗濯物はひんやりとしている。陽光は日に日に弱くなっていき、だんだんと冬の気配を感じはじめる。

一首においてまず想起するのはそんな季節の変化だ。太陽の光が弱くなり、だんだんと秋の濃度が増していき、冬が近づいてくる。広葉樹は葉の色を変え、もしそれが落葉樹なら少しずつ葉を落として裸木に近づいてゆく。広葉樹が「うつろになってゆく」という表現には納得感がある。

一首では、季節の変化とともに陽光が弱くなる現象が「太陽がだんだん弱くなる」として提示されている。正確には、季節の変化は太陽が弱くなるからではない。正しく理解しているわけでは無いが、冬が近づき日差しが弱くなるのは、地球の地軸の傾きと公転の帰結だろう。
ただ、掲出歌のように「太陽がだんだん弱くなる」と言われても納得してしまう。前述の理科的な知識は多分正しいのだろうけど、実感としてはわからない。地球の好転も、地軸の傾きも体感することは不可能だ。「太陽がだんだん弱くなる」の方が遥かに実感に近い。同時に、太陽が弱くなり、広葉樹がうつろになるという表現は、どこか太陽にも広葉樹にも意思が存在しているかのような印象を付す。

そんなことを考えていると、一首はもう少し長い時間軸をも射程に入れているのではないかと思いはじめる。太陽は時間の経過とともにその活動をいくらか変化させているため、実際に太陽自体が弱くなることはあるようだ。広葉樹は太陽の活動の変化を感受しているのかも知れない。

一首において、太陽が弱くなり、うつろになるのは広葉樹だ。ただ、季節の変化とともに(あるいは太陽の活動の弱まりとともに)、人間もどこかうつろになってゆく。寒くなれば、また暖かい日々を思い描いて日々を過ごす。春を待ち、芽吹の季節を待ち望む。

それは、人間も樹木も同じことなのかも知れない。

ありそうでなかった想いわきあがる樹木は生きるためにとどまる/東直子『十階』

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