君を択び続けし歳月、水の中に水の芯見えて秋の水走る

河野 裕子『紅』(ながらみ書房  1991年)

 

 今ここにあるのは、選択の結果だと聞いたことがある。日々、すべてのことを、選択しながらここまで来たのだと。何時に起きるか、何を食べるか、どちらの道を行くか。何を学ぶか、何の仕事をするか、誰といるか。もちろん、「どちらの足から踏み出すか」などの無意識の上での選択も多いけれども、確かに毎日毎日、様々なことを引き比べながら、こちらにしよう・今日はやめようなどと判断しながら生きている。

 

 「君を択び続けし歳月」  とても印象的なフレーズだ。この人と一緒にいよう、一緒にいるのはこの人だと、文字通りに「択」んだ始まりの日が、まずあったのだ。「択」には、手でえらび分けるという意味があり、採択、二者択一という言葉からもわかる通り、心にかなうものをしっかりと取り上げるというニュアンスを持つ。自分の手が掴むのだ。

 そしてその「択び」は、それからずっと行われてきた。思えば、今ここに共にあるということは、そうしようと決めてきた瞬間、瞬間の蓄積による。離れるという選択肢もある中で、今も一緒にいるということは、それを択び続けてきたからに他ならない。

 だが、普段はそんなふうには意識しない。だからこそ、「君を択び続けし」ということの鮮やかさに立ち止まらされる。幸せな時間ばかりではなかったろう、その波や風の中でも、一から、何度でも一から君を択んできたということの果てしなさと強さが、改めて思われてくるのだ。

 

 下句、「水の中に水の芯見えて」は、そんな、一見何気ない日々の中に、ひそやかになされ続けてきた、しなやかでタフな行いを象徴する。芯  水に芯があると思っただけで、ぐっと水がたくましくなる。透明だけれど、普段は隠されているけれど、誰にも見えないけれどある、要の部分。「しん」はおのずと「しん」と響きあいながら、静かに躍動する水のひとすじを想像させる。

 

 そうして「秋の水」は走る。それは、真っ直ぐに迸る心でありながら、もう春や夏のようなそれではなく、馴れた柔らかさも有しつつ、きりりと清く行くものだ。

 

 「歳月」の後に入れられた「、」に、ここまで来たというひとときの感慨があって。

 

 秋の水辺である。

 

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