我の引く犬より大きな犬が来て犬と一緒に固唾をのみぬ

小塩卓哉『たてがみ』角川文化振興財団,2022年

犬の散歩をしている一場面。向こうから自分が引いている犬よりさらに大きな犬が歩いてくる。大丈夫かなと思って自分がリードを引いている犬の方を見ると、犬も緊張しているのがわかる。コミカルで、いかにもありそうな場面だ。

「我の引く」の措辞から、犬と主体の関係は主体の方がいくらか優位な感じがする。さらに大きな犬の存在も相まって、やんちゃかもしれないが獰猛ではなく、さほど大きくはない、そんな犬を思い浮かべる。
一首は何度か視点が切り替わる。まず「我の引く犬」で主体の後ろをついてくる犬が像を結び、二句三句で向こうからやってくる大きな犬の映像が想起される。ここまでは明瞭に主体の視点なのだけど、下句の「犬と一緒に固唾をのみぬ」に至ると、主体と犬の両方が映像の中に収まる感じがする。主観的なカメラから俯瞰的なカメラに映像が切り替わるようだ。「犬」の語が三度出てくるが、それぞれ視点が異なるので、不明瞭な印象は無い。

「固唾をのみぬ」は慣用表現であり、使用には慎重になる語ではあるのだけど、一首ではやや無造作に使用されている。それがどこかコミカルな印象を生み、前述の視点の切り替えも相まって、コメディドラマの一場面のように感じられる。

短歌の中で自分以外の人間の感情の動きを描くとき、本質的には他者の感情は不可知なものであるがゆえに、不自然な印象を生むことがある。ましてや、犬の気持ちなどわかりようはない気はするのだけど、一首の中には犬と主体の交感が成立していそうな気がする。(これ、大丈夫?ど、どうなんの?だ、大丈夫だよね?)というようか感情を双方が共有していそうだ。それはあくまでも人間の側から仮構されたドラマに過ぎないのかも知れないけど、一首のコミカルな印象も相まって、無理なく感受することができる。

そういえば、3月25日の日々のクオリア(加藤直美『金の環』)でも犬同士がすれ違う歌を鑑賞したが、加藤さんの歌が客観的な観察と場面の把握に優れていたのに対して、掲出歌は犬への心寄せが強く感じられる。
当たり前だが、犬と人間は言語による意思疎通ができない。だからこそ、大型犬の登場によって、偶発的に生じた意思疎通の機会を主体は楽しんでいるのかも知れない。

励ましより共感がいいとう目をすればわが家の犬がすり寄って来る/小塩卓哉『たてがみ』

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