安っぽき照明の下打ち解けてスープきらめくうどん啜れり

嵯峨 直樹『半地下』(角川学芸出版  2014年)

 

 温かい食べ物が恋しい季節になってきた。うどん  とてもいい。出汁の利いた湯気の立つ汁の内に、やや太めの麺が横たわる。啜れば食感はつるつるもちもちしていて。食べごたえがあるので、お腹が満たされ、そうして心も満たされる。素うどんのシンプルさもいいが、お揚げなどが載っていたら最高だ。いずれ、ごてごてしていないゆえの素朴さが安らぎを与えてくれる。

 

 ここでは誰かと一緒にうどんを食べている。「安っぽき照明」とあるので、料亭などではなく、大衆的なこちゃっとした店なのだろう。そもそもうどん自体がカジュアルな食べ物だ。ハレとケならケ。たとえばいい雰囲気になりたい誰かと行くなら、イタリアンなりフレンチなり、もっと違う選択肢があるようなものだが、ここではうどんが選ばれている。

 うどんを一緒に食べるというのは、結構ハードルが高いのではないだろうか。麺をすする時に音が出るだろうし、汁も飛び散るかもしれない。一本の麺が切れなくて、口いっぱいに頬張るかたちになってしまい、もぐもぐと嚙み続けることもありうる。

 だが、だからこそ、うどんを一緒に食べられる相手というのは、それだけ親しいという証明にもなる。そういう姿を見せてもいい人ということになる。つまり、うどんは「尺度」である。

 

 「打ち解けて」というからには、それ以前は打ち解けられていなかったことになるが、一緒に話している中で仲良くなり、今は共にうどんを啜っている。そういう位置にまでぐっと到達したのだ。

 だから、「スープきらめく」は、むろん、頭上の「安っぽき照明」をまともに受けたゆえの輝きなのだけれど、心のときめきの投影でもある。打ち解けられた喜び、うどんを一緒に食べられる自分達である喜びが光るのだ。

 

 共食きょうしょく」という言葉がある。一緒に食事をするという意味だが、それは儀礼的な意味合いでも、社会的な面からも大切にされた行為である。互いの結びつきを強めたり、確かめたりすることにおいて。

 

 いや、結びつきを強める一方で、うどんは啜るほどに緩やかにほどけてゆく。二人の関係性もほどけてゆく。そんな風に安らかに広がりながら食べるうどんは、さぞかし美味しいだろう。

 食べることがただの栄養摂取ではつまらない。美味しいなあ、嬉しいなあという満足感を誰かと共有できたら、そこがどんな場であろうと、やはりきらめいて見えるのだろう。

 「スープきらめくうどん」  俗な舞台の中だからこそ、反転、一層美しい。

 

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