金木犀うすくフェンスにふれながらいつかはいつかのままに遠くて

大森静佳『ヘクタール』文藝春秋,2022年

少し前まで暑かったのに急に寒くなってきた。それにともなって金木犀も闌という感じだ。この時期は、ふらふら歩いていると金木犀の匂いがして、少し進むと金木犀が鎮座している、みたいなことが時々起こる。そして、ちょっと嬉しい。沈丁花や梔子とともに、金木犀は三大香木に数えられるらしいのだけど、金木犀の香りのイメージはひときわ強い。

掲出歌はまず上句で金木犀の状況が描写される。公園のような場所か建物のまわりかはわからないけれど、フェンスのそばに金木犀が植えられている。ある程度大きく生育したのだろうか、金木犀はかすかにそのフェンスに触れている。細やかな描写だ。

「うすく」という措辞が微妙に独特だと思う。状況はとてもよくわかるのだけど、「かすかに」とか「少しだけ」などの方が金木犀がフェンスに少しだけ触れている状況を描くなら適当な気がする。〈薄い〉の対義語は〈厚い〉や〈濃い〉なので、どこか不均衡な感じがする。
ただ、金木犀に〈薄く〉という措辞はとても似つかわしい。それは、金木犀の香りが前提にある。もし金木犀の花が咲いているとしたら、主体はその芳香を感知しているだろう。もしかしたら、うすい香りを先に認知して、そのあとで金木犀を視認した可能性も、もちろんある。一首においてこの金木犀が咲いていることは明示されていないのだけど、〈うすく〉の措辞によって、香りが導かれ、花が咲き芳香を放つ金木犀が像を結ぶ気がする。

下句の「いつかはいつかのままに遠くて」は魅力的なフレーズだ。解釈に幅があるフレーズだけど、最終的にはまだ到来していない未来に辿り着く。〈いつか行こうね〉、〈いつか会おうね〉、〈いつか飲みに行きましょう〉、〈いつか歌会でご一緒しましょう〉というように、私たちは、無数のまだ辿り着いていない「いつか」を抱えながら生きている。そのうちのいくつかは、辿り着くことの無い「いつか」であろう。
主体は、自身がまだ辿り着いていない「いつか」に、金木犀がかすかにフェンスに触れている景から逢着したのかも知れない。もしかしたら、自身が金木犀の香りの先に存在する金木犀に辿り着いたように、「いつか」を思ったのかも知れない。一首の上句と下句は必ずしも意味の上で強く固定されてはいないのだけど、そのつながりをどこかで感じてしまう。

まだ出会っていない無数の「いつか」を思うとふっと不安になる。その「いつか」に辿り着くことはないのかも知れない。
それでも、「いつか」は生きるための原動力にもなり得る。生きてさえいれば私が抱えている無数の「いつか」に辿り着くことができるかも知れない。そう思うと日常の些事をどうにかこなすことができる。

今の季節、金木犀に出会うたびに大森さんのこの歌を思い出し、そんなことを思うのだった。

横顔というのは生者にしかなくて金木犀のふりかかる場所/大森静佳『ヘクタール』

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