遠く來しもみぢの山にみづからの修羅見てめぐる 旅とはなに

畑 和子『白磁かへらず』(白玉書房  1972年)

 

 ようやく山手から、紅葉の知らせが聞かれるようになってきた。夏場の高温の余波により、今年の見頃は平年より遅くなるという。寒くならないといけないのだ。寒くならないと赤くならない。秋、冬の乏しくなる光に合わせ、光合成の活性度を落として行くはずが、いつまでも元気で青々としていなくてはならないとしたら、樹木よ、大丈夫かと心配になる。そして同時に、人間の勝手ではあるが、例年通りに美しい紅葉を楽しみたいのにと思ってしまうのだ。

 

 この方も山の「もみぢ」を楽しもうと旅にやって来た。遠いところからはるばる。ところが、山を歩きつつ、思いは外界の美しい紅葉ではなく、いつか自分の内側へと向けられていた。「みづからの修羅見て」という表現がどぎつい。「修羅」は戦いの神である阿修羅の略で、「修羅場」という言葉もあるように争いや戦いを示す。それも、さっぱりとした戦いではなく、果てしなく、醜く、激しく争うイメージだ。終わらない、止められない、抜け出せない昏い世界。それが自分の中にある。つまり、楽しむために旅に来たはずが、自分の暗部と向き合うことになってしまったのだ。

 

 その苦しい感情は、同行者に対するものかもしれない。非日常の旅では、日々の些事の中でごまかされてきたことが表面化する場合がある。つれあいの一挙手一投足がいちいち癇に障り、本当にこの人が嫌いなのだと気付き、しかし離れるのは難しいと煩悶したり、一緒にはしゃぎながらも、仲良しの友人への嫉妬・憎悪が膨らんで打ち消せなくてつらかったり……。それが「修羅」なのかもしれない。

 また、一人を満喫するために来た山を歩きながら、一足一足、歩を進める中で暗い心が研がれてゆくということもある。過去や今の様々な「修羅」があざあざと立ち顕れるのだ。

 自分と向き合わざるを得ない山の時間。紅、朱、丹、緋、橙……。様々な「もみぢ」が彩る山なのに。堪能したい美しい山なのに。

 

 メーテルリンクの「青い鳥」は、幸せを探しにあちこち旅したが、実は我が家にあったという話だが、これはその裏バージョンで、どんなに日常から遠くに旅しても「修羅」からは離れられなかった。

 「旅とはなに」という、一字空け後の、放るような疑問。

 せっかく旅に来たのにという憤懣や悲観、諦観より発せられたものだろうが、しかし、これは深い哲学的な問いかけでもある。

 旅とはなに。なんだろう。

 

 ダイレクトな答えにはならないが、ヘミングウェイの言葉にこういうものがある。

 

旅に出ても、自分自身から逃れることはできない。              

you can’t get away from yourself by moving from one place to another.          『日はまた昇る』

 

 ああ。

 純粋に旅を楽しむのは、なかなか難しい。

 

 

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