白き紙いちまいのの花の種子げにひえびえと古代文字ならむ

小中英之『わがからんどりえ』(角川書店、1979)

だれが頼んだわけでもないのにひまわりの種子はあんな愛らしい縞模様をしているし、オシロイバナのそれはまるで砲弾のようだし、朝顔のごとく半月状に膨らんでいるのもユニークだ。考えてみれば、植物の種も、昆虫の卵も、何百万年か昔のデザイナーが設計したとしか思えないウィットに富んだ意匠をもっている。そんなことを思ったことのある人は多いと思うけれど、なるほど「古代文字」という喩えはその不可思議を知的好奇心を添える形で実に簡明に語っている。けれど、それにさきだつ「ひえびえと」が示しているのは、古代の設計者(ふみこんでいえば創造者=神)という究極の他者と心を通わすことなどできないと端からからあきらめているような、主体の孤独であろう。

『わがからんどりえ』は新鋭歌人叢書の遅れて刊行された一冊。「からんどりえ」は、フランス語のcalendrier、つまりカレンダーである。あとがきに語られるように、歌の配列もなんとなく季節ごとにゆるやかにまとめられている。歌集には主体以外の登場人物といえるような人物はまるでいないといってよく(孤独もこの歌集のテーマであろう)、主体はどこか鬱屈したまなざしで自然の営みをみつめ、そのむこうにあるからくりを見透かそうとさえするようだ。

人形のかしらほどなる朱の果実あまき香りは種子群を秘む
冬の日のあけがたひとり沈黙のはてに胡桃を割りつつ遊ぶ
蟻たちの営為つづくに昏れそめて遅遅と柘榴の落花うごけり
にぎはしく黒くかなしき海獣のスポーツのうへ陽はふりそそぐ

この歌集で、種子や果実のたぐいはふしぎと主体の孤独感と対置するようにうたわれている。上の一首目、果実の中に秘められた「種子群」はひとつひとつがあらたな生命のみなもとであるはずなのに、この歌ではまるでリボルバー式の拳銃につめられた弾のようではないか。主体の自然や生命(それが「からんどりえ」と名づけられたのだとみてもいい)へのまなざしは、畏怖の念をふくみながらも、どうしても悲劇の予感をはらんでしまう。四首目はほかとやや趣を異にするのだが、歌集終盤の「海獣館」という連に含まれている。からんどりえの生みだした命が、ここではどういうめぐりあわせか人間の手の中に落ち、白日のもと「スポーツ」なる芸当をさせられている。からんどりえの崩壊がここに予言されているとみる。

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