澤村 斉美


まもなく君が帰り来る夜を見つめたり あをあをと埃のやうな月光

米川千嘉子『たましひに着る服なくて』(1998年)

人を待つ心は、古典和歌でも近現代短歌でもたびたび詠われてきた。恋人が家に来るのを待つ、待ち合わせで人を待つなど状況はさまざまだ。一人で待つ時間は孤独だが、待つべき相手がいるからこそ温かく濃密でもある。

 

掲出歌は家族の帰りを待つ。「君」は夫として読んだ。夜、夫が帰宅するいつもの時間が近づいたのか、「もうすぐ帰る」と連絡があったのか、作者は待っている。じっと見つめる窓の外には青い月光がある、という。この通り、「夜を見つめたり」は、窓の外の夜の景色を見つめている、と読めるのだが、もう少し踏み込みたい。相手が帰れば、会話が始まり二人の時間に切り替わるが、待つ間は一人。徒然にもの思いをすることもあるだろう。人を待つゆえに生まれる一人の時間と向き合うことを、「夜を見つめたり」は含んでいるのではないか。

 

ところで、「あをあをと埃のやうな月光」が心にしみる。単に、美しく青い月光ではないのだ。煙るやうな、つかみとれない、もろくはかない。「君」がまだ現れない空間に、そんな月光のみがある。「待つ」時間は、「待つ私」と「君」との間の、共有されぬ深い時間の溝であると同時に、「待つ」という思いを通じて二人を結びつけるきずなでもある。そんな不思議が、帰りを「待つ」という日常の行為のなかで感受されている。