冬の医師とわれは思へり椅子ひとつ持ちきて夕べ白くゐるひと

 

                     犬飼志げの『鎮花祭』(1973年)

 

 作中主体の傍らに人が座っている。何かの会合か、その人は椅子を持ってきてそばにすわったのだろう。そして、作中主体はなぜかそのひとを医師であると直感するのである。そのひとの表情や体格、服装はここでは明らかにされない。その人は医者であるという根拠は歌の中には示されないのだが、主体はふかい確信をもっており、私たちもその医者と思しきひとのたたずまいが、なんとなく分かるような気になる。

 「冬の医師」の「冬の」という限定は不思議といえば不思議だ。この歌が読まれたのが冬だったというわけではないだろう。あるつめたさや冷静さをまとっている医師のイメージだろうか。「白くいるひと」もそれと同様で、人物の細部が書き込まれているわけではないが、その人の一面を切り取ってきているといえるだろう。触れがたい、遠い存在の人物というイメージもある。そして、「椅子ひとつもちきて」という動きが、その人に立体的なたしかな存在感をあたえている。

 

さかしまに閃き落ちしはわれなるかと思ふに白き日の中の橋

 

 橋のうえから、作中主体自身が閃めきながらおちてゆく、そんな錯覚に陥ったということだろうか。さかしまに閃きながらおちてゆく「われ」に一瞬遅れながら気づく「われ」がいる。錯覚の中で、あ、危ないと思った瞬間に、錯覚でないほうの「われ」が、自分は橋の上に立っていると気づくのである。「白き日の中の橋」には、自分の存在をそとから眺めているような冷静な認識があり、錯覚のなかの「われ」と対照的だ。その意識の二重性があざやかに描かれていると思う。

 

 

自らの霊(たま)をかすかに嗅ぐごとき夜の白罌粟のかたはらをすぐ

 

うち消して来たる思ひのいくたびか劇しき驟雨枇杷の葉を打つ

 

秋ふかみゆく哀しみはその人をとほき古代に置きてわが恋ふ

 

火のごときチロル帽ゆくみづうみの橋の上(へ)にして流雪はげし

 

さくらさくらさくらの下に預けたる寂しきわが手わすれ睡らむ

 

霧のなかにゆき遇ふ人ら眼(まなこ)なしここより杳き斑鳩の里

 

鶴のごとく痩せゆくこともねがひつつゆきまみれなるわれと思ひぬ

 

熱出でてわがおもふ森は昼ながら昏くかんざしのごとき花さく

 

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