棚木 恒寿


嘴赤き小鳥を愛でゝしろ銀の皿に餌をもるゆく秋の人

                         原阿佐緒『涙痕』(1913年)

 

 『涙痕』は原阿佐緒の第一歌集。さまざまな恋愛事件を体験した人であり、本集もその文脈で読まれることも多いが、ここでは恋の歌以外の作を引用した。嘴の赤い小鳥を愛でる人がいる。そのひとがそっと、しろ銀(しろがね)の皿に餌を盛っている。情報としてはそれだけの歌だが、嘴の赤と皿の銀という色彩が非常に印象的であり、それらを容れている晩秋という季節の空気がそっと伝わってくる(結句の「ゆく秋の人」は幾分強引な用法かもしれないが、逝きつつある秋-晩秋-の人くらいに解釈した)。絵ならば、キャンバスのほとんどは暗い色で塗られているのに、ほんの小さく点された朱と銀に鑑賞者の目が吸われてゆく、そんな感じに色彩が極めて有効に使われているように思う。小鳥を愛でる人の感覚はあくまで繊細であり、景の提示はロマンチックでもある。

 

 

秋の朝ふと見る庭に鶺鴒の生ける蝶をば食めるかなしさ

 

たそがれの藪の影すくほのあかり眺めてあれば月となりゆく

 

 

 一首目、秋の朝に鶺鴒が生きたままの蝶を食べている様子を作中主体は見ている。「ふと見る庭に」だから、なんとなく眺めていた庭に、そういう無残な光景を発見している。食べられる蝶もかなしいが、鶺鴒もかなしい。可愛らしいはずの鶺鴒の背負ってしまっている生物としての性を見ながら、主体は風景と自分の心のかなしさをつなげてゆくのである。鶺鴒が蝶を食べている光景だけが悲しいのではなく、その光景を見て主体のこころが揺れている、そこにこの歌のポイントはあると思う。「ふと」や「かなしさ」は現代短歌の作歌セオリーでは禁じ手とされることも多いが、ここでは光景から触発されて心がゆれるという回路をそっと指し示しており有効であると思う。二首目はやや幻想的な歌だろうか。すくは「透く」(あるいは「漉く」)か。夕暮れの藪の影を透けて通ってくるほのあかり、それをぼんやりとながめているとひかりがだんだん月だと分かってきたのだという。「月となりゆく」には、ひかりを眺めていると、それがだんだん月に見えて来たという、認知や意識の変化が繊細に表現されていると思う。「藪の影すく」というミクロと「月となりゆく」というマクロが一首の中で組み合わされており、幻想的でありつつ景はリアルだ。

 

 

おほらかに花ずりころもきるときに君を思へば胸高くなる

 

泣き泣けどなごまぬ心すべをなみ海に捨てむと思ふひととき

 

 

  一首目は、君を思う恋の歌だが、「胸高くなる」は向日的で阿佐緒には珍しいかもしれない。二首目は、泣いても泣いても心はなごまず、自分の心をなごませる術はないので、心を海に捨ててしまおうとい歌だろう。「すべをなみ」「捨てむと思ふ」には、泣き疲れながらもそういう自分の心を客観的に眺めているような視点があり、心理の機微が見える。