棚木 恒寿


貝の剥き身のようなこころはありながら傘さしての行方不明うつくし

 

                      内山晶太『窓、その他』(2012年)

 

 貝の剥き身にはどこか無残な感じがある。本来固い殻で守られているべき貝の実が、人間によって引っ張り出されて外気に晒されている。「貝の剥き身のようなこころ」からは、何らかの原因で傷んでいる精神のありようが想像されるだろう。何かのために傷つき、痛む剝き出しのこころである。一方で、下の句にはやや明るさが見える。傷ついて、出奔願望に駈られながらも、出て行くときは傘をさしながら出て行くひとり。その背を美しいと思い、主体は自分を重ねて行く。そこには、傷ついて出奔することへの若者らしいあこがれがあるだろう。傘をさすというダンディズムには聡明さもある。上の句から下の句への「ありながら」で接続された展開が巧みで、やや暗いけれども、典型的な青春歌になっている思う。

 

 『窓、その他』は内山の第一歌集。二十代半ばからのおよそ十年間の作品が収められている。

 

床に落としし桃のぬめりににんげんの毛髪つきて昼は過ぎたり

 やわらかき粘土のような海の色を見つめつづけていれば眩暈す

 舗装路に雨ふりそそぎひったりと鳥の骸のごとく手袋

 夜のみずながれてあれは鼠なりなめらかにありし二秒の鼠

 

 

 読んでゆくといくらでも秀歌に出会う。一首目、床に落とした桃に「人間の毛髪つきて」は、何とも無残でありながら確実な手触りがある。その手触りのうちに「昼は過ぎたり」と時間はどんどん経過してゆく。どこか鳥瞰的な視点から、時間の経過を観測しているような感覚があり、なんとも寂しい。「やわらかき粘土のような海の色」「鳥の骸のごとく手袋」、いずれも海や手袋よりも、粘土と鳥の骸という比喩する側のほうの手触りのほうが圧倒的である。「なめらかにありし二秒の鼠」は、一瞬川水のなかに見えた鼠の実在感を良く表わしていると思う。

 

 

終電に目瞑りながら立つことをハイビスカスの髪飾り幻(み)ゆ

 遊園地にひかりはじけて胸の酸なつかしくながれ出でてわれあり

 手紙いちまいポストに落とし歩きだすまだかろうじて明るい帰路を

 

 「目瞑りながら立つことを」の「を」の接続は、順接でも逆説でもない微妙な気分であり、非常に繊細だろう。「ながれ出でてわれあり」の句跨りは、流れ出る感傷的な気分と重なり、いずれも細かい定型の呼吸が生かされている作だと思う。

 

 

布のごとき仕事にしがみつきしがみつき手を離すときの恍惚をいう

 つぼみひらきて裏返るまでひらけるを夜の玄関の百合は筋肉

 晩秋や シャワー浴びれば転がってゆく鉛筆の幻聴すずし

 

 

 「布のごとき仕事」「百合は筋肉」「転がって行く鉛筆の幻聴」、比喩はいずれも刺激的だ。特に「布のごとき仕事にしがみつく」は、ゼロ年代の若者の労働環境を思い起こさせる。この比喩でこそ切り取れた時代の感覚といえようか。

 

 

なにということもなき昼の自室にて鏡のごとくなりてわが居り

 のびやかな影をひきつつ老い人は午後の日差しに出逢いつづけぬ

 ぶらんこの鎖つめたくはりつめて冬の核心なり金属は

 信じればやがて喪ういちにちのさむい光のなかに白梅

 

 ひとりで思索し、丁寧に物を見つめ感じる時の歌も良い。